人生

やっていきましょう

315日目

空腹をあまり感じなくなった。1日の気だるさを感じる頻度が減ってきた。今日は朝の目覚めが良かった。昨日までの頭痛や息苦しさがなかった。

この数日間よく噛んで食べること、十分な睡眠を取ることを意識してきた。その効果が現れてきたということだろうか。

2つのことを認めた。まず自分は相当疲れていた。自覚はほとんどなかったがおそらく睡眠不足が一番の原因だ。夜明けの5時までPCをしているときがある。起きた後には疲れと気だるさが残り、しばらく起き上がれないでいる。起きてしばらくしたら脳が熱く感じ、意識が混濁する。その状態を無理やり我慢して起きて、力尽きたら寝る。その繰り返しだった。

次に食生活が不安定だった。朝・昼・晩の食事を適切な時間帯に摂っていなかった。最も多かったサイクルは、昼に朝食、夜に昼食を摂り、寝る前に夕食を摂って寝るというものだった。また食事も5分以内に済ませていた。よく噛まずに流し込んでいた。常時喉が渇いているので、際限なく飲料水を摂り続けた。それでも空腹は続き、喉は乾くので我慢した。我慢すると頭痛と気だるさが生まれたが無理やり抑え込んだ。

上記のふたつは共通点を持っている。いずれも欠乏状態を強く自覚したときにはじめて埋め合わせるというものだった。睡眠は時間ではなく、激しい意識の混乱と睡魔に耐えきれなくなったときに行った。食事も時間ではなく、激しい空腹に耐えきれなくなったときに摂っていた。激しい苦痛を自覚しない限りは行動に移さず、ある程度余裕があるうちに休んだり、食事を摂るということがほとんどなかった。

これは経済的に余裕がない人間が、大事をとっていくらかの金銭を貯めることなく、日々の生活のために一切を使い果たしてしまうという状態に似ている。その日暮らしの満足を得ようとして、ギリギリの生活を営まなければならなくなっている。そこには明日への投資という考え方が存在しない。

自分も同じだ。自分の睡眠や食事は今日一日のためのものだと思っている。しかし体力限界で眠りに落ちたなら、それは明日の体力に影響しないわけがなく、偏った食生活が惰性のまま維持され続けるのなら、その偏りは次の日のサイクルを規定する。今日1日を生きようとだけすると、明日もまた今日1日だけを生きようとする。

そこに余裕は生まれにくい。今日のように朝の目覚めが良く、1日の作業に問題がなく、少し余裕がある状態で眠るようにするという状態は、1日の短絡的な惰性からは生まれない。今日という1日は今日ばかりでなく、明日への余裕にもつながるということを自覚しなければならない。

明日への投資、というと幾分滑稽に聞こえる。自分には明日に対する希望もなければ、こうありたいというビジョンもない。現在、まさにこの瞬間だけがすべてであり、未来も過去も今この瞬間からすれば虚構でしかない。だが多くの人間は、そうした虚構に対する想像力を持っていた。夢というとまさしく事実誤認以外のなにものでもないが、そうした夢が未来のある1点に現実を方向づけ、人間を稼働させてきた。だから自分はあながちシニカルになることもできない。

今回の一件で自分も夢を持った。1日1日を余裕をもって暮らしていけることだ。そのために十分な睡眠、十分な食生活を維持したい。そうして生まれた心の余剰から、何か新しいことに挑戦する動機が生まれやすくなるのではないか。