人生

やっていきましょう

318日目

過度な現実主義は現状追認に終わるという言説を今までに何度か見かけた。現実に即した思考を続けていると、思考が現実そのものになる。この話には心当たりがある。自分の思考の経過は現実に偏りすぎている。

例えば朝起きたことはそのまま朝起きたことでしかない。思考を迂回させて、わざわざ朝の雰囲気や自分が感じた感覚を楽しむことがほとんどなくなる。

要するに想像力が欠落している。自分の思考の範囲は、自分の限られた生活の中だけにしか及ばない。おそらくかつては逆だった。現実にありながら、極めて主観的な想像の世界に自分は生きていた。致命的なストレスと、思考が現実から乖離し過ぎていたことへの反動で、自分の想像力はほぼ完全に消失した。

絵や創作、文章について、かつては空想を自由に広げられていたが、今では現実だけしか分からない。人のいう詩的な、教訓めいた言葉を見ると、違和感を覚える。もちろん自分に対しても。

現実に適応する能力と、未来に対する想像力を働かせる能力は両輪なのだと思う。どちらに傾きすぎてもいけない。中庸ではないにしろ、どこかしら丁度いい塩梅のところはあると思う。だから未来に対する想像力をあまり軽視したくはない。

難しいのは、未来に対する想像力は必ずしも現状追認からは生まれないということだ。起こりそうな未来の可能性は確かな現状認識から生まれるかもしれないが、あったら面白そうな可能性や、もはやどうすることもできない最悪の可能性といったそうそう起こるとは思えない未来についての想像力は、極めて非現実的な経過を辿る。

だがそうした可能性を多少踏まえて物事を考えることは、現状追認で思考を働かせるよりも多くの警戒と対処を可能にするだろう。まさにそれゆえに自分は過剰に現実を見失なっていたのだが、現実的な思考に慣れきった今なら、少しずつ未来に対する想像の余地を回復させても良いかもしれない。