人生

やっていきましょう

320日目

何もないということを再確認した。自分を価値づける諸要素を見いだせず、ただ生活に必要な最低限の活動を慎ましく行った。ただそれだけだった。

「今は仮の自分だけど」という言い訳はもはや通用しない。今日という1日が自分という人間のすべてであり、その積み重ねが自分を形作る。今まで積み重ねてきた日々を振り返ると、本当に自分には何もなかったのだということを思い知らされる。

自分は前進もしていないが後退もしていない。糸の切れた操り人形のように、意思もなくその場に倒れている。願望もなく、夢もなく、ただ痛みから目を逸らすだけの日々が続いている。自分という人間を形づけているのは、1日1日の虚飾、惰性の厭世観、いつわりの鼓舞、目標という偽物の動機づけ、身の入らないポジティブ志向、苦し紛れの努力信仰、もはや崩れ去り、消えかけている僅かな関心の誇張、そうした物事を無理に楽しもうとする素朴な自己欺瞞だ。

出来る限り様々なことに手を出してきたが、取り組むごとに何か奇妙な違和感を感じている。そしてそれは日に日に強さを増してくる。自分がしようとしていることは、人生に希望を持ち、目標を立て、その手段と過程をひたすら考え、ただ努力に身を捧げようという、まさに多くの人がしていることの模倣なのだが、なぜか自分の心が伴っていない。自分はそれを楽しみたくて仕方がないのだが、どこか「楽しまされている」状態であり、そうだと認めてしまっては、どこか冷めた目で見てしまう。

すべてがそうだ。「努力させられている」「目標を立てさせられている」「ある価値観が自分にとって強く興味を喚起させるものだと積極的に認めさせられている」肯定的な感情、価値観、信条のすべてが自分に「させられている」ものだ。これは他人がそうさせている面もあるだろうが、それ以上に自分がそうさせているのだ。自分自身が、自分の本心に反して肯定的な虚構を植え付けようとしている。なぜならそうすることが世の中の状況に適応することに繋がるからだ。

環境に適応するために、自分の心を捻じ曲げている。本心はすべて虚しく、全てがどうでもよく、面白くもなんともないものを世辞で褒め続けるのは苦痛で、生きる意味は存在せず、自分の精神を歪ませた社会一般に対する逆恨みと、誰とも痛みを分かち合えないという強烈な孤独感があり、努力する意味がわからず、どこへ行くべきかもわからない、だから何もかも台無しにしたいという負の感情で満たされている。そうした破滅的な衝動、確信を抑えて、自分はまだ人間でありたいという僅かな期待をもって「させられている」を受け入れている状態だ。

それは悪いことばかりではない。自分が自殺をせず生きるという決心をしたのは、こうした生存に対する虚飾の肯定によって正当化されているからだ。生きることは必ずしも良いことだとは思えないが、あまりにも脆く儚い自分の生存に対する願望を、最低限維持してくれてはいる。自分はそれを、とりあえずは良いことだと思うことにしている。自分はその点において首の皮一枚つながって、まだ人間であることができている。

だが本心をいえば、既に生存を諦めており、棺桶に片足を突っ込んでいる。価値は死に、希望もなく、すべてに意味はないと分かっている。価値の世界からはじき出された自分は、意味の内側で満たされている人たちにどう接近していいのか分からない。放っておけば世界と自分の乖離はますます進んでいく。しかしそれを止めることもできない。自分が既存の社会からかくあるべしと示された「興味」「関心」「意欲」「夢」「目標」「美意識」といった枠組みが、自分の中で一切が腐食していくのを肌で感じている。自分はもう一度、その枠組みを信じたいのだが、もはや一切が無意味であるように感じている。

このことは誰にも相談できない。価値の内側にいる人間には「バカな考えだ」とか「観念に囚われすぎている」としか見られないだろうし(だがこれはひとつの真実を表している)、似たような境遇にあって失望している同志がたまたま見つかったとしても、彼らにも同じように解決の道などないのだということが十分わかっている。せいぜい酒を飲んで気を紛らわせるか、おいしいものを食べてTwitterに優勝したと呟くことくらいしかできない。ゲームと同じだ。その日の気分で紛らわせ、できるだけ問題は見ないようにする。

意味の喪失に対して自分は未練がましい。失われたものは失われたのだから仕方ない。意思がない。欲がない。夢がない。なにもない。みじめさとくやしさだけが残る。だが仕方ない。それでも自分を騙し続けなくてはならないのだ。まだ自分が生き続けていられるために。

 

明日からも虚飾をわが身にすり潰し、生存の糧にする。