人生

やっていきましょう

321日目

虚無的な観念に絶えず囚われているため、人は常々虚無的に考えるものだと思ってしまっていた。事実はそうではなく、むしろ虚無的になる方が異例であり、何かしらの意味の内側に人は日常を見る。

虚しいと感じることさえ、相対化されうる。無意味と感じることはまさにそのまま意味を持たない。意味の喪失は同情されるべき問題ではない。それは適応の放棄であり、反社会的理念である。人は虚無に落ちないために生きている節がある。落ちた人間のことなどもはや誰にも与り知らぬことだ。

考えてみれば当たり前のことだ。むしろこの常識を反故にして虚無を撒き散らす行為にどれほどの義があろうか。人が楽しんでいる映画を、ゲームを横目に「何が楽しいのか、人生は虚しい」と言われたらあまり良い気分はしない。たとえそれが冗談でも。

人と関わることがないから、世間の常識から徐々に乖離していく。自殺という言葉の深刻さが自分にとってはもはや挨拶程度の常識であるように、虚無的な価値観もまさしく自分の中での常識でしかない。その常識はブログという閉鎖空間の中でゆっくりと、確実に形成されてきた。だがこの狭い空想の中で通じる価値観は、世間に好ましいものであるとは限らない。そのことを常に自覚せよ。

困難な状況に長く晒され続け辛く苦しい思いをした人間は、そのことに強く囚われすぎる傾向にある。彼らは自分のことしか見ることができない。故に悲劇のヒロイン気取りやメンヘラなどと揶揄され、人として近寄り難い地雷であると判断される。

これは正しい。自分の苦しみがいかほどのものであれ、相手に同情を求めて良いのはそれを生業にしている人だけだ。それ以外は善意の助言者でなければ期待するだけ無駄だろう。どうして彼らが自分のために安心を与え慰めなくてはならないのか?そんなことより一緒に楽しめるゲームでもした方が良いのであって、いちいち精神異常者の繰り言に構う必要はない。

虚無的な考えを抑え人と関わりあっていくことは難しい。だがそれほど自分にできないことではない。人間関係を通じて楽しい気分を得るということを意識すれば良いだけの話だ。今日はそのことを考える機会を得た。