人生

やっていきましょう

332日目

不安が続いている。変わることを放棄し、現状の自己肯定を優先させることに納得できない。だが今の自分には本当にそれくらいのことしかできない。心は回復に向かっているとはいえ、かつてのように何かに挑戦する気概をもはや持ち合わせていない。そういうジレンマがある。

いつまで自分の心の傷を癒し続けなければならないのか。どこまで行けば自分は立ち直れるのか。何も分からない。ただ快調に向かうことを祈るしかない。

諦めるということは本当に簡単だ。粛々と生きる。痛みのない生活を第一とする。それが人生の目標になってしまえば、また自分がそれで満足してしまえば、今抱えているほとんどの苦悩は消えるだろう。何ごとも意味がないという立場からすればこれは正しい。

だが自分の中でそうさせまいとする力が働いている。弱者のつまらない意地かプライドか、ここで折れないことが人間の証明であるような気がしてならないのだ。それはひどく脆く、一度不安が襲えば簡単に吹き飛ばされるようなものだが、それでも自分はその価値を守り続けている。

明らかにこの考えが自分の心を蝕んでいる。自分の今までの人生の中で見出した、身の程に合わない困難に果敢に挑戦し苦痛に耐え続け勝利を勝ち取れという狂信が、人の目に対する過度な恐怖、劣等感、一度も失敗はできないとする完璧主義を醸成し、本来の弱いままでいたいという自分を戦場に引き摺り回す。ありのままの自分は否定されるべきで、弱者であることは罪だと思い込まされる。

自分は能力主義、競争主義という強い光に晒されて精神をすり減らし、その必然として挫折した。だが最も大きな挫折は競争に敗れたことではなく、自分には何もないと悟ったことだった。自分がやりたくてやったことなら、失敗してもまた挑戦すればいいと思える。やっていて楽しいことだったら、結果がどうあれ清々しい気持ちで退場できる。

だが自分はそのどちらでもなかった。自分を守るために戦い続けていたが、守るべき自分など本来どこにもなかったのだ。自分がかつて心から価値を見出していたものは、いずれもどこか遠くに消えてしまった。自分はただ現状を否定し、自分の存在を証明しようと躍起になっていた。それは自分がやりたかったことでも、やっていて楽しかったことでもない。自分を常に否定して前進させる。それだけだった。

今はもはやかつてのように挑戦することはない。休息の必要が強迫観念に勝ったのだ。自分の心にとって今ほど適った時はない。だから現状こそが自分の本当に求めていたものであるかもしれない。

だがやはり、何もしないことに不安がある。かつてのように再び努力しなければならないと思わない日はない。能力主義や競争主義の理想はかつてのような強迫観念ではないにしろ、依然として残り続けている。その事実を直視することは苦しい。事実消し去りたいと思う日もある。だが十年以上も自分を蝕んできた観念をそう易々と捨てられるものでもない。結局、そうした観念に囚われる自分とも向き合い続けるしかない。