人生

やっていきましょう

333日目

思考を言語化することにうんざりしている。毎日のように思考を記録づけていると、嫌でも自分の見たくない部分を見なければならなくなる。来る日も来る日も自分の弱さ、不当な感情、それをどうにか隠そうとする狡猾さ、臆病さと向き合い続けている。あまり気分のいい話ではない。

不都合な事実について延々と語ることはできても、それらを解決する方法はひとつもない。自分は価値の無い人間だということを暴き出しても、結局はそれを自己否定の材料にするか、無価値に盲目的になれている人間たちに嫉妬するだけだ。そういう意味では自分には進展があまりない。ただ易きに流れている。

言語の精度が粗いことも不満のひとつだ。自分が言語化している情報はほとんど場当たり的な思いつきであって、詳しい裏付けを取ったわけでもなく、信頼における情報からの引用でもなく、ただ単に自分はこういった思考状態にあって、今のところこうした態度であるということを表明しているにすぎない。自分が言語化するものには何ら有益な情報がない。

では、情報の精度を上げて質の高い文章にすればいいだろうという反論が当然思い浮かぶが、まさにそうであるとしか言いようがない。今の精度のまま何年も似たような不満を自分に言い続けていたら、いつしかそのようにしか自分をとらえられなくなってしまう。自分でも気が付かないうちに妄信に足を掬われる。だから適度に外部からの情報を取り入れて、自分を変化させていかなければならない。

これは本当に深刻なことだと思う。自分は自分が思っているほど物事を知っているわけではない。これは一般的な忠告が示す範囲よりも更に低く見積もっておくべきだと思う。自分の場合、単純なことであれ無知であることが多すぎる。自分の思考の大半は思いつきやすい情報で構成されていて、それらは長い時間をかけてゆっくりと、互いのピースがうまく関連しやすくなるように加工されている。

非常に危険な状態だ。自分は単純なパターンの関連しやすさの奴隷になっている。思いつきやすい言葉を並べて誰も求めていない親父ギャグのように何度も聞いた言葉を垂れ流す。もはや自分が言っていることが、本当に正しいことなのか、本当に場に適しているのかと考えることがない。自分はほとんど何も考えていない。

自分は専門を持たないのだから、単純なパターンの連続からしか自分の思考を生み出せないのは当然だ。何度も言及し飽きた問題についてしばらく離れたいのなら、自分の外の問題に目を向ける必要があると思う。