人生

やっていきましょう

337日目

雑感

(Ⅰ)

事実は毎日Twitterに触れているということであり、毎日流れてくるわかりやすい指標、反応が期待されている情報に対してそのまま反応するということである。そういう情報のもぐら叩きを何時間も費やして、人生の虚しさを忘却する日々にある。

そうした集団的な画一状態に対して(もちろん自分自身もそのプレイヤーの一人として)冷笑的な態度を取ってしまいかねないが、最近では冷笑に対する冷笑、自嘲に対する自嘲というものがうっすらと流行っているらしく、自分も冷笑行為それ自体が集団的な反応の一形態にすぎないという見方をするようになってきた。そうした冷笑に対する冷笑もまた情報に対して反応している集団的画一の亜種にすぎないのだが。

結局もぐらたたきの業から脱却するためにはインターネットを断つしかない、そういう言説をよく見かける。どこか解脱を目論む仏教的な思想を連想させる。山籠もりの隠遁の現代版がインターネットを断ち晴耕雨読の日々を送るということか。

 

(Ⅱ)

Twitterによって自分の中のトレンドがインストールされていくうちに、ふと現実がTwitterに置き換わっていくような感覚を覚える。ゲームの知人とチャットしたときに、その人がTwitter上でのつぶやきとまったく同じ話題をしていたことを覚えている。そういえば自分も似たようなことを何度かしていた。そもそもTwitter自体、自分の関心の名刺代わりみたいなもので、似たようなことをいうのは当然の話だった。だが結局それは予測可能、共有可能な話題ばかりになり、よく言えば関心のマッチングがしやすく、悪く言えば底が知れるということで、開けてびっくりという話にはなりにくい時代にはなったと思う。

 

(Ⅲ)

最近安易に虚無という言葉を使いすぎる。自分の浅学と無理解を誤魔化し、漠然とした全体に漂う雰囲気を虚無と名付けただけで、事実が複雑怪奇であることには変わりがない。自分は虚無という言葉を用いて「何もない」というフィクションを構築しているにすぎない。それは観念上のひとつの真実であるということには疑いはないが、それは己自身の中だけで起こった悲劇的な大変動の結果であって、外の世界とはまったくの無関係だ。

 

(Ⅳ)

自分の本心は虚構の中に生きていたいのだなと思ってしまう。自分は雰囲気で生きるということぶち壊しにして何でも疑いの目を向ける冷笑仕草を植え付けた勉学と競争社会に対して不満があり、だからこそもっと頭を使わない生き方を選べたのではないか、その方が自分にとって幸せではなかったのかと度々後悔する。ただそうした言葉の裏腹に自分が拠り所にしたがっている「頭をつかっている」という自分の印象が、単に自分がそうでありたいと思っている願望の投影にすぎなかったとしたら、とても残酷なことではないか。自分は本当に頭を使っているわけではなく「頭をつかっている」という物語の住人になりたかっただけにすぎないのだとしたら。

ならば自分はせいぜい気が済むまで「頭をつかっている」と思い込んで生きればよいのだが、もはや自分はそうは思えなくなっている。それらは事実錯誤の万能感であり、自分にできること、できないことの線引きがまだ明確でない時代の宗教だ。今はもはやその素朴な信念では通用しなくなっている。事実は自分の知っていることはあまりに少なく、知っていることの多くも願望の色眼鏡で歪んで受け止められている。

 

(Ⅴ)

スマブラをした。自分はデデデ大王を使っている。ゴルドーを投げるだけで楽しい。そういう1日だった。