人生

やっていきましょう

342日目

昔から自分は会話ができない人間だと思っていた。当時はそこで問題にされているものを正確には把握していなかったが、とにかく人との意思疎通を取ることができなかった。

はじめは自分の情報伝達能力、言葉の選び方に問題があると思っていた。それで気がついたら言葉はどんどん硬い表現になっていき、敬語が増え、解説的になり、話す内容は教科書のようになっていた。だがこれも行動のほんの僅かな成功例でしかない。大抵は情報の取捨選択の量が自分のキャパを超えてしまい、話す内容を自力で構築することができず、会話を避けるか、パニックになっていた。

自分はしばらくこの情報の厳密な伝達というものに拘り続けていて、いかにそれが難しいことであるかということを考えなければならなかった。自分だけが極端な困難を抱え、他の人間があっさりと意思疎通が取れているということに不条理を感じていた。

実際のところ、情報伝達能力の欠如が意思疎通の不具合を招いていたわけではない。自分は情報の内容にこだわりすぎていたが、多くの人間にとって意思疎通は人間の共感的な側面に支えられている場合が多い。最低限の情報の骨組みができていればそれでよく、残りは表情やボディーランゲージ、声のトーンといったノンバーバルな部分から感情交流を楽しむことを主眼に置いている印象を受ける。

そこで自分を振り返ってみる。自分は相手に表情を見せたことがない。ボディーランゲージを駆使したこともない。声のトーンも単調だ。話す内容も最小限でしかない。他人と目を合わせることもしない。こうした人間がいたとして、意思疎通ができるかと言われればおそらくできないだろう。自分をクローズしているのだから、どういう意図や気持ちを含んでいるのか察知することができない。彼らが毎回自分に向けた怪訝そうな顔はこうした事実を反映したものである。

しばしば会話は信頼を構築する手段であると考える。話す内容が厳密に正しいか正しくないかは問題ではなく、自分の中にある同じ考えや思いを相手の中に想起させ、その共有可能な同質性をもって信頼の輪の中に引き込めるかどうかが重要なのだ。こうして生まれる信頼のネットワークによって円滑な意思疎通が可能になる。信頼を構築できた多くの人間たちが共有する価値観を多数派と呼び、その傘下に居る限り意思疎通は難しいことでもない。

この信頼を得る努力を自分はしたことがない。信頼を得ようにも、自分が相手を信頼できていないからだ。だから孤立し、意思疎通が困難となり、理屈屋と謗られ共感の輪の中に入り込むことができない。自分はかつてそのことに絶望して、どうにか他人からの信頼を得ようと努力していた時期がある。自分が思ったことをそのまま言わず、他人の意見の肯定できそうな部分を言葉にして返していた。だがそれはうまくいかなかった。相手はこちらの肯定的な意見を見て自分と同類の人間であると思ってしまうが、自分は無理して合わせているだけにすぎず、決して心から共感しているわけではないのだ。

自分が意思疎通の対象として想定している一般的な人間たちは、おそらく厳密な情報というものにそれほどこだわりがなく、感情とお気持ちをベースにした共感の輪の中で、互いの信頼を確かめ合うことにしか関心がないのではないかと思うときがある。

これはおそらく正しい。だが不十分な言及だ。事実は自分がそういった環境に居たということであり、その環境下で自分を適応させようとして無理やり歪ませたということである。たまたま共感のシグナルが感情優位の環境に身を置いて、自分が相手の感情を斟酌できる人間であるかのように無理やり擬態した。結果的にそれは失敗し、自分は心に傷を負った。

だがより広い視野で外の世界を見てみると、感情やお気持ちではなく論理や事実に基づいた共有を重んじる世界も存在する。ウィットやアイロニーの共有が重んじられる世界も存在する。あるいは人間単体を見ても、感情やお気持ちによる繋がりを大事にする価値観を持った世界から産まれそこに十分適応できていたとしても、論理や事実に基づいた共有の輪に入り込み十分適応できる場合もある。だから十把一絡げにああだこうだということはできない。

個々の世界にはそれぞれ固有の様式で互いの信頼を確かめ合う方法がある。その振舞いに自分は適応可能かどうかを常に自問する必要がある。またそれぞれの様式はどれか1つだけ選ばなければならないものでもなく、横断的に適応することができる。したがってひとつの様式に囚われず、多様な選択肢を前に柔軟な態度をもって臨むことができる。

自分が「会話ができない」というのは、こうした論点を踏まえればそれほど複雑なことではないということがわかる。最低限の情報の骨組みが成立しているという前提で考えるなら、意思疎通の不具合は互いの信頼を構築できていないことに起因する。信頼は、日本円紙幣が全くの効力を持たない国の売店で10000円札を差し出すことと同様、その価値が担保されている輪の外を抜けてしまえば全く通用しなくなる。その国のレジでいくら我が国の紙幣でこれだけのものが買えると力説しても無意味であるように、価値観が異なれば、何を信頼のサインとして重きを置くかが異なれば、会話は容易に成立しなくなるだろう(そういえば自分が今当たり前のように使っている日本語もそうだろう)。

かつて自分は意思疎通ができなかったときに、何でも自分が悪いと思っていた。聞き手は十分な咀嚼力を持ち、多様な価値観が存在していることに理解を示しているのだと漠然と思っていた。そういう人間もおそらくいるだろう。だがそれと同じくらいそうでない人間もいる。そうした人間に遭遇したとき、自分はどうするかということを常に考えておかなければならない。自分はもう誰これ構わず信頼を得るために媚びを売り、思ってもいないことを言うつもりはない。状況によってはある程度そうするかもしれないが、許容範囲を超えた部分には不満や意見を言うようにする。

自分の情報伝達能力がひどく欠落しているという思い込みについては、いつも言っているようにそれは過剰な自責から来る偏見だと判断するようにする。どこまで情報が伝わりやすい表現を心がければいいかという基準はなかなか判断しにくい。最低でも、自分が今まで見てきた他の人間の文章と同じくらいの、自分が読んでおおよその意味が掴めるほどの情報を心掛ける。