自分がなりたかった自分とは何だったのかということを考えている。大体思い浮かべるのは、今の自分がこうでなかったらという負の感情で、例えば他人に対して物怖じせず自分の主張をはっきりと伝えられる人間だったらとか、咄嗟の機転が利く人間だったらとかいうことを考えてしまう。それらは自分の願望というよりは、本来の自分に適さなかった状況にどうにか適応しようとして生まれた劣等感で、どこかそう望まされているような気がしてならない。
いくつかの劣等感は本気で克服しようとして、失敗したものもあれば成功したものもある。厄介なのは克服に成功した劣等感で、自分の中でそれは元々好ましいものだったと思いたがっている。例えば元々勉強は嫌いだったが、自分の中で克服して好きになろうとしている。運動もしたくはなかったが、運動をしてからそれを趣味にしたがっている。英語など見たくもなかったが、劣等感を拗らせて学科を英語にしてしまった。
注意しておかなければならないのは、劣等感を克服しようとした中で自分の関心を強く惹いたものも当然あったということだ。だからすべてが劣等感の裏返しというわけではないのだが、大半は劣等感の産物であり、劣等感の中から自分本来の関心を見つけ出すのは相当難しい。それで自分の関心もろとも一斉に心から排除したのだが、なかなか劣等感は消えてはくれない。少しだけ自分に余裕ができると、自分が劣った人間であることを悔やんでしまう。
劣等感が自分の糧になるような人間というのは、大抵目指すべき方向性が絞られている人間だ。自分のような全方位に劣等感を覚えてしまった人間は、ひとつの劣等感が、別の劣等感を連鎖的に刺激する場合もあれば、自分のなかでひとつの好意を持とうとしたことが、かえって別の劣等感を刺激する場合もある。あるいはひとつの関心を持続させるために、複数の劣等感を同時に手懐けておかなければならない場合もある。
例えば自分の中で「ゲームが好きだ」という感情があったとしても「勉強もせず、ゲームばかりして」という反論が咄嗟に思いつき、そのことに自分が反論できないので、その都度自分は自らの関心を殺してきた。だから自分は「ゲームをする自分に価値はない」と思ってきたし、「それでもゲームを好きでいられる為には、勉強をしなければならない」と思ってきた。
勉強をどれほどやっても自尊感情にはつながらなかったのは、どこか言い訳としての勉強であったことと、あるいはそれを劣等感を補うに有り余るほどの自己の拠り所にしたかったことが関係しているのかもしれない。大学に行くと更に拗らせて、今度は「勉強やゲームだけの人間に見られたくない」という思いに支配され始め、ますますゲームをすることに負い目を感じ、勉強もあまりしなくなり、代替の拠り所となるものを不毛に探していた。だが結局それも見つからなかった。
こんな感じのことがゲームでない他の関心にも同時に起こり、ある関心は死滅し、ある関心はそのまま劣等感の宿主となった。関心を維持するというだけでも相当なストレスを覚えるため、はじめから関心など持たないままの方がいい、自分を持たないまま劣等感に突き動かされていた方がいいと考え、多くを諦めてしまっている。
劣等感を抱く人間というのは世に数多存在するが、大抵は気が触れておかしくなってしまう。他人に当たるようになるか、自責の口実にするか、ありもしない妄想に怯えたり癇癪を起こすようになるか。自分もそうなりかねないということは感じてきたが、どういうわけか自分は今狂わずに済んでいる。繰り返しになるが、一度すべての執着と焦りを手放したことが、自分の判断力を正常に戻したのかもしれない。
(あるいは自分の劣等感が生み出した過度な規範意識という歪みが、うまく作用した可能性がある。たとえば酒は認識力の劣等感を高めるという理由で一切飲んでいない。恋愛自体も同じ理由でしていない。どこか既視感があるように思ったが、実は宗教の定める規範と同じ構造をしている。自分は特別なにかの信仰者ではないが、宗教規範と呼ばれるものはこうした信条から生まれるのかもしれない)
ただ判断の正常さを代償に、もはや何かの価値観を信じることができなくなってしまった。自分は絵を描くことが好きだったが、今では絵を描くことに何の意味があるのか分からない。また、好きであるフリをしてかつてのように描こうとすることが苦痛でしかない。絵だけではない。あらゆる関心があらゆる劣等感に連想され、それだけでもう見るのも嫌になる。
自分の中に僅かに残っている関心は、ゲームと、クイズと、世界史くらいか。旅もいい。海外のネットのよくわからないギャグにも関心がある。この関心というのも曖昧だが、少なくとも自分にウソをついているようには見えない。これがなければ生きていけないというほどでもないが、これらがあることで助けられているところもある。
自分の関心の中に生きる閉じたギークな生き方に憧れていたが、そうするにはあまりに多くの劣等感を背負い過ぎた。おそらくこれらの関心も、少しの劣等感で吹き飛ぶくらい脆弱なものだろうが、自分には残された僅かな関心を守っていく他にない。自分は自殺をしないという決意をしたのであり、自殺をしないということは、惨めながらも虚構を拠り所にした生を生きるということでしかない。