人生

やっていきましょう

364日目

0日目を含めれば今日でちょうど1年経ったことになる。記録したことは些細なことだったが、それでも継続して取り組んできたことで、自分自身を以前より正確に把握できるようになったと感じている。

去年までの自分は自分の理想やバイアスがかかった主観を現実であると思っていた。だから自分の認めたくない事実、見たくない事実からは無意識に目を背けていて、それが表に出てくると自分の現実が壊れてしまうような気がして、必死に心の中で抵抗してきた。

だがこの1年で、自分はほとんどの妄想を排した。自分が見たいと思っている願望は願望にすぎず、自分が認めたくない弱さは、そのまま自分が弱さを認めたくないという事実を明らかにしているだけだ。このように考え続けることによって、自分の心は僅かな安定を得た。

たとえば人と同じレールに乗れなければ価値がないということ、誰かが自分を好意的に分かってくれると思っていたこと、自分が無理をすれば誰とでも分かり合えると思っていたこと、努力がそのまま評価に反映されること、あるいはすべての価値、意味は元から存在していること、世の中や自分は不変であるということ。これらはすべて幻想だった。

人と同じレールにのることに本質的な価値はない。先の見えない不安定な情勢、逸脱を恐れる心、自分自身に自信が持てないということ、こうした状況に都合が良い価値観だから支持者が増えているだけだ。これは逆のことにも言える。レールから外れることにも本質的な価値はない。

誰かが好意的に分かってくれることはあまりない。それはそのまま、誰かに分かってほしいという願望を投影しただけにすぎない。ごく稀に分かってくれることはある。だがそれは今の自分にはあまりにも少ないというのが事実だ。だから分かってもらえることをあてにするのは愚かだ。

無理をすれば誰とでも分かりあえるというのは事実に近い。だが無理がいつまでも通ると思っていたことは正しくなかった。自分は価値観の異なる相手に対して極力理解を示そうと努力してきたが、ほとんどの人はそれほどこちらの価値観を理解しようとせず(これは自分の価値観を人に開示することを恐れていた自分の非でもある)、自分の中の世界だけで完結しているようだった。むしろこちらが理解を示そうとすれば、相手は自分を同類と認識し、自分の価値観を押し付けようとするのだった。そういう事実を認めた上で、自分に無理を通すというなら理解は可能だ。だがそれゆえに自分の心を壊してしまったという事実を振り返るなら、すべての相手に無理を通すというのはあまり賢明ではない。

努力がそのまま評価されるということはほとんどない。言い換えれば、自分が「努力をしてきた」という視点は、自分の内側からの評価でしかなく、それがそのまま外側の評価に等しくなるということはあまりない、ということだ。ある集団においては努力できるということがそのまま最大の評価になり得る場合もあるし、別の集団においては努力はできて当然、そこから結果を出さなければ意味がないと判断される場合もある。もっといえば、努力をして結果を残すことは当然で、その先の誰も見たことのない発見を探り当てることに価値があるとみなす集団もあるだろう。いずれにせよ、世の中の評価の軸は自分が思っている以上に多様であり、そのうちのひとつでしかない「努力をしてきた」という自分の評価は、外の軸とそうそう一致するはずがない。自分に近しい評価をしてくれる軸もあるだろうが、それは利害を伴わない関係であって、社会は個人に寄り添うことなどそうそうない。

すべての価値、意味が元から存在しているというのは幻想だ。人生の意味はこうであるというとき、それはそのまま自分の価値観、自分の信仰を表明しているにすぎない。とはいえ、自分のこうした考えも元から存在しているわけではない。自分の経験や環境、精神状態、遺伝などに影響されて、こうした考えを生み出しているだけにすぎない。目に見えぬ神が存在することを頓珍漢だと思う自分が、でははたして価値や意味が存在しないということを本当に証明することができるのかといえば疑問である。極力バイアスを外して、現実的に考えようとした結果こう考えざるを得ないだけであって、究極の意味や価値を巧妙に覆い隠している上位者が本当に存在していないと断言することはできない。だから自分の考えも一種の信仰表明でしかない。

だが一方で、価値や意味は流動的なものでありながら、機能としての役割を持つという事実にも目をむける必要がある。それが変わりやすく、常に単一のニュアンスを指さないものであっても、それでも価値や意味においてコミュニケーションは交わされ、ある一面では互いの納得を得ている。それは事実だ。自分は意味や価値がないと言いながら、これまでの意味や価値に影響を受けて、単なる文字列を意味があるかのように毎日書き続けている。これもひとつの事実である。

この世に不変でないものはない。社会の価値も変わりやすく、自分の価値も変わりやすい。なにかの意味についてもそうだ。それは移ろいやすく、わかりやすい形をもたないので、これだと断言することができない。断言できるのは、それが自分にとってわかりやすい形として長く保たれてきているからで、その価値を突然剥奪され、何もわからない混沌状態に陥ってしまえば、それが一時の夢であったことを知るだろう。

こうした考えに至ったことで、自分は基本的にネガティブに物事を見るようになっている。だが一方で、ネガティブに考えすぎるということも避けるようになってはきている。ネガティブに考えすぎるというのは、誰にも分かってもらえないから価値がない、レールから落ちたから価値がないという自責であって、それは「自分には価値がない」という負の価値づけでしかない。こうした価値に囚われていることを現実と呼ぶのなら、自分は前の自分とまったく同じことをしている。

価値をなくす、意味をなくすという方向は仏教的な考えだ。私欲をなくし物事をあるがままに見つめ受け入れるという姿勢は、同情できる部分がある。だが自分はそうした生き方を本当に望んでいるのか分からない。自分はまだ何かできるという思いがあり、ひとつの挫折で草木とともに隠遁するという気にはなれない。これは正しい見方ではない。価値の世界をまだ生きていたいと思い込んでいる、誤った見方だ。だがよくいる仏教徒のように、解脱が至上であるという価値を素直に受け入れることもできない。結局自分は虚無にではなく、意味や価値の世界に身を置きたいのだ。

繰り返すが、自分の虚無感というものは、すべてが失われたという喪失感に伴って、自分のなかのあらゆる価値観がすべてそこに引き寄せられているというだけの、ブラックホールのような価値観にすぎない。それは強大であるけれども、その喪失に囚われ続けるというのは負の価値づけでしかないと認識するべきだ。本当に意味や価値が存在しないなら、ブラックホールが何を吸い込もうが、自分が壊れようが、それは自然現象のひとつでしかなく、何も落ち込む必要はない。これが本当に虚無を受け入れるということだ。自分にはそれができない。だが共生することはできるように思う。

虚無感に支配されるのではなく、虚無感を支配して自分でコントロールする。価値観に支配されるのではなく、価値観を支配して自分でコントロールする。すべての価値観を切り詰めるわけでも、すべての虚無感を排して妄想の世界に逃げるのでもなく、自分に最も適した形で、どちらともうまく関わり合っていく。まだ不十分だが、この1年でようやく自分が馴染んできたと感じている。

自分は価値が現実ではないということを知った。また、どこかで価値を持ちたいと思っている自分も知った。これから自分が取り組んでいくべきことは、自分に対する不当な自責、相手に対する不当な恐怖を排して、自分に率直な生き方をしていくことではないかと思う。そのために記録はまだ続けていく。