人生

やっていきましょう

365日目

言及は画一的になり、現状維持をただ延長しているだけという感覚がある。もはや自分のことを語り続けるということに限界を感じている。おそらく次の日も、次の週も、次の月も、同じことを繰り返す。今日は何があり、どう感じた。それが自分にとって、何を意味するか。それを考え続ける。

無駄であるとは思わない。こうして向き合い続けることが不安定な自己を一点に留めることに繋がる。自己の同一性は記録の継続によって担保されている。どれほどそれが無意味な経験であれ、自分がそこに確かに存在したという形として現れる。だがこれ以上何を語ればいいのか分からない。どれだけ自分を言及し続けたところで、自分は生きていていい理由を見つけられていない。自分自身についてもう十分言及し尽くしており、そこから明らかになったのは、自分には何もないという明確な事実だけだった。これ以上語るべき言葉が見つからない。

元々この記録は自分が何もできない人間であるという思い込みを矯正するところからスタートした。はじめは簡単な作業を習慣化し、徐々に難易度を上げていった。本来の見込みであれば今頃更に難しい問題に取り組んでいるべきはずだったが、矯正と同時に自己肯定感を維持しなければならず、ここ8か月ほどはその安定のために時間を浪費してきた。結果目標を設定することができず、曖昧な日々を送っている。

その目標を再び稼働させることはできる。この1年で最低限の矯正は達成した。あとは自分が何をしたいか決めるだけだ。だが自分にはそれを見つけ出すことができなかった。何を身勝手な、世の中には自分のことを我慢して社会に尽くしている人が大勢いるという反論は正しい。だが自分にはその無理がもうできない。できるかもしれないが、本当に自分の命を削ることになる。それは長い目で見れば自殺であり、今死ぬこととあまり大差がないように思える。ならばどうして今死なずにそんなことをしなければならないのか自分には分からない。

これは人の目が怖いということばかりではない。自分がゲームで遊んでいるとき、自分はなぜそんなことをしているのか分からなくなる。自分が絵を描きたいと思って、ゲームを作りたいと思っているとき、自分がなぜそんなことをしているのか分からない。どれも記録と同じ生の延長に過ぎない。無理をしてこれらを持続させてもいいだろう。だが結局それらは苦痛になって自分に返ってくる。

自分は何かを好きで好きでたまらないから継続し続けられるという人間ではない。そういう人間に自分はなりたかっただろうし、必死でなろうとした時期もあったが、無駄な試みだった。そうした試みはすべて歓迎されず、自分はあまりにも弱かったので自らの嫌悪感に屈してしまった。結局は自分の意思を持たず与えられた指示をこなし、期待された答えを出すことばかりを考えるようになってしまった。それも洗練させればまだ救いがあったが、無理が祟って不十分な成果しか残せていない。機械ならば廃棄されてしかるべき存在だ。

自分は何者にもなれないという事実だけがある。これは有名人になるとか、賞を得るといったことを指しているわけではない。心の底から自分自身に納得できているかということだ。いくら社会が自分を非難したとしても、自分が本当にゲームをプレーしていることに満足していて、10年でも20年でも費やすことを厭わないと本気で思っているのであれば、彼は十分何者かになれている。他人が決めるのではなく、自分自身がそう決めて納得しているからだ。

要するに自分が何者であるかというのは信仰の度合いだ。どれだけ自分に不都合な事実に晒されていても目を背けられる図々しさ、それでも自分はこれを信じられると思える都合のよさ、これらがなければ自分が何者であるなどとは思えない。不都合な価値観や圧力に晒されてその都度自分を切り離して生きてきた自分には到底理解できない世界だ。だがそうした過剰適応が生んだ結果が、今の何者でもない自分であるとするならば、彼らの生きざまの方が本来自分には望ましかっただろうと思う。

記録は1年経った。次の目標は自分の納得できる生き方を選択することだ。これほど難しいことはない。おそらく一生かかっても見つからないかもしれない。だがだからといって何もせず手をこまねいていていいというわけでもない。何かに挑戦し続ける。新しいものには目を向ける。物事を決めてかからない。自責はほどほどにする。こうした基礎的な方針は維持し続ける。