人生

やっていきましょう

367日目

思考を自力で矯正するというのはある種の自傷行為に近い。自分が元々抱えていた思考の歪みはそのまま自分の価値観に深く根差しており、それを切り離すということは自分自身の価値観を殺すことに等しいからだ。

現在思考は矯正されており、確かな価値観はどこにも存在していない。自分の口から出てくる言葉は、目の前にあるものが何ものでもないという評価以外、すべて偽物である。何ものかであってほしいという願望を巧妙に隠して、さもそれが真実であるかのように語っているだけだが、実際それは自分に嘘をついているのだと認めなければならない。

自分の口から偽物の言葉がでてきた瞬間に、自分の中で殺している。自分は自分の言葉を、願望を、価値観を何度も殺している。事実に基づいた判断力を養うという名目で、バイアスがかったものの見方を排除する。手元には瀕死の価値観が残りいくつか臨終の時を待っている。それが尽きたら自分には何も残らない。

自分は人格形成に失敗した人間のひとつの例だ。自分の感情と価値観に素直になれなかったこと、事実と価値観を誤認して考える強さを持てなかったこと、自責の傾向、環境に対する過剰適応、生まれつきの精神不安、そうした諸々の原因が一度に重なって、価値観の自殺というかたちになって表れた。

ひとつだけ良かったことがある。自分の価値観を守るために苦しむことが少なくなったということだ。自分の中にある価値観を守るために、否定すべき現実に対する生存願望と闘い自殺を決行する必要がなくなった。どうにか這い上がり、自分という人間を外に証明する必要がなくなった。必要がないということはしないということではない。そうしなければ生きるに値しないという焦りや恐怖を抱く意味がほとんどなくなったということだ。

すべては同じ俎上の等価な選択でしかない。だから今生きることも死ぬことも、何かをするのもしないのも、同じでしかない。そういう思いが日に日に強くなる。同時に自分の願望がますます薄くなっている。自分は何がしたいのか分からなくなり、何に喜びを見いだせばいいのか分からなくなった。

おそらく自分が死ぬのは、この問題に耐えきれなくなったときだろう。それがいつかは分からない。