人生

やっていきましょう

370日目

あらゆるものが無価値だという評価は、それが事実に即している反面、自らの崩れた価値観を主観的にただそのまま表現しているだけかもしれない。純粋な探究心からではなく、自らの精神の欠落を埋め合わせようとする狙いがある以上、客観的な事実というよりは、主観的な意味づけの問題であるということを中心に考えた方がいいかもしれない。

何かの対象に向けて好意的に反応することが正常にできていない。それは自分が好意的な反応をすることによって、自責と調整が発生するよう自らが仕組んでいるからだ。自分の人生の主眼にあったことは社会に対する適応であって、その適応のために自らの好意的な感情を全て否定し尽くしてきた。根底には誰かに人格を否定されることに対する不安があり、話の通じない相手と対面することへの恐怖があった。

自分は話の通じない人間が自分の人格を根拠もなく否定するということを過度に恐れていた。実際そうしたことは現実ではなかったが、ネットでは日常茶飯事だった。小さいころからそうした毒素を浴びて育っていたので、ほとんどの人間が他人の言葉尻を捕らえて人格の否定に繋げようとしているという妄想を抱いた。

こうした考えを抱いて以来、自分は常に間違っていると思うようになった。自分の価値観は他人に受け入れられないので、自尊心は育たなかった。これらが自分の本来の自分の好意を否定し尽くす原因になっている。

自分は絵を描きたかったが、絵を描くことはテストの成績に繋がらないので否定した。音楽をやりたかったが、部活に勉強の時間を取られることを懸念してやめた。テレビを見て楽しもうとしていたときに、くだらないという心無い言葉を受けて否定したこともあった。ゲームだけは最後まで守ったが、ゲームに対する社会の否定的な風潮を受けて、素直に楽しめないでいる。

課題は明らかで、好意に対する正常な反応を取り戻す必要がある。だがそれには相当な時間がかかる。かつて自分は自分が否定し続けてきた価値観を再評価しようと試みたことがある。だがそれは最終的に自分の嫌悪をさらに募らせる結果となった。否定し続け、もはや自分の手元には残っていない好意を、無理やり捏造してまだそこにあるように見せかけていることへの嫌悪感に耐えられない。それでまたすべてを否定し尽くしている。

自分の興味や関心を素直に受け入れるためにはどうすればいいのか。自分の中でその答えがまだ見えていない。こうしている間にも自責は延々と続いている。自分が壊れる前に自分を肯定できるようになりたいと思っている。だが自分にはどうしたらいいか分からない。微弱な関心をどうにか見つけて、自分の本来の感情としてそのまま受け止めることを今まで続けてきた。だが効果はまったく現れない。

自分の中には、自分を肯定するに足るものがもう残っていないのかもしれない。そう思うと胸が苦しくなるが、やはり地道な努力を続ける以外選択肢はない。前向きに生きている人間たちを見て暗い感情を募らせていても、自分が救われることはない。自尊に恵まれた人生を歩めなかったのであれば、その事実を受け入れるしかない。