人生

やっていきましょう

373日目

うまく言語化できないが、物事をなんらかのパターンに当てはめて自由に連想する考え方、例えば世の中には陰と陽、柔と剛、アッパーとダウナーがあるなどと見たり、あるいは自分に関わる人には「縁」がある、悪いことをする人にはバチがあたる、努力は常に報われるといった信念を持つことは、それが実際に確たる根拠を持たないに場合にさえ、世間では広く自明のこととされている。芸能人や著名人が自分の信念を表現する上で今までこうした物言いをしてきたことは記憶に新しい。それが重鎮であればこそ、プレゼンスが物をいい妙に納得させられる。

こうした思考法にかつて自分はどっぷりと浸かってきた。自分にとっての現実とはこうした説話の中にあった。説話といえば、夜になると篝火を囲うように座り老人の昔話を傾聴する村の集会、小説や漫画のキャラクターが発する素朴な信念などを連想させる。かつてそれらは現実と地続きで、そのまま現実の一部だった。

一部のネットユーザーの間ではこうした考え方を「雰囲気で生きている」と呼んでいる。たしかにその通りで、自分の感覚の外側のことは理解するよりも雰囲気で察するということが多いような気がする。理解という言葉には近代以降主流となりつつあるメタで分析的な思考を前提としている。厳密な理解のために現実「感」と一体化した信念と距離を取り、場合によっては崩そうとする態度だ。

自分の経験としてこの問題を見てみると、おそらくこうした雰囲気から独立した思考の存在と有用性に気づく機会というのはほとんど限られていた。義務教育で教わる成果自体はこうした考えに裏打ちされていたが、それを教わる教育の中に生かされていることはあまりないように感じた。これは教師の問題というよりはとにかく高得点を取るための暗記が最優先される風潮、また価値判断や雰囲気から独立した思考を行うということが肝要の理数系科目がそうした思考を当然のように自明視していること、それ自体としてことさらに言及すらしないことに問題があったように思う(とはいえ当時の自分にそれを理解し受け入れる知能があったかといえば甚だ疑問だ。実際のところ、そうした視点を生徒に教えようとしていた教師の意図を自分が汲み取れなかっただけかもしれない。明らかに当時の自分は勉強よりもゲームが重要だという信念を疑わなかった)。

こうした考えを持った友人も持たなかった。価値観を確立しているか、自分を持たないような人間ばかりだった。こうした考えを家族から教わることもなかった。やはり自分と同様、漠然とした雰囲気の中にあった。結局は自分の置かれた環境からどうにかヒントを探り当て、自分で分かろうとする他になかった。

人間は何らかの介入がない限り、自然と自分の信念や価値観を守ろうとするだろうし、その中の世界をなんとなくすべてだと思うようになる。他人の関わりや対立を経て自分と他人を丁度いい塩梅で相対化できるのかもしれない。だがそうした理想的な成長を誰もが歩んでいけるわけではない。信念に取り憑かれた人もいれば、自分のように紆余曲折を経て壊れるまで分からない人間もいる。

自分は幼少の頃から対人関係を拒絶したばかりに、2018年に致命的な精神の挫折を経験するまでにこのことを理解することがなかった。よく言えば失敗したことで成長したとも言えるが、実際は更に深刻な状態になっている。あまりにダメージを受けすぎたことで、意味や価値観が解体されるという事態に直面している。適度に崩すのではなく、急進的に全てが断絶される。世界に適応するために必要な緩やかな説話や物語を内面化することができず、かといって窮地を乗り越えようと慣れないメタな思考を内面化しようとしても、うまく行かないばかりか余計に意味が解体される。

日頃自分が言及しているように、自分にはもう何もない。何も根付かず何も育たない。ただ壊れたように生きている人間だ。自分が本当に適していた生き方は、自分の無知を省みず、どこか自分は物事を分かっているかのような顔をして、伝聞したことを鵜呑みにする雑な情報リテラシーと、雰囲気と自由な連想で生まれたもっともらしい信念を持って、意見を同じくしない他人をバカだと笑い、ワイドショーや週刊誌を見ながら政府は何もわかってないと憤慨し、同じ考えの人間にはよくわかっているじゃないかと認め合い、酒を飲み、歌を歌い、家族を愛して、自分が当たり前だと思う世界から出ない人生を送ることだったかもしれない。そう思うと失われたものの大きさに悄然としてしまう。

自分は理解に対する劣等感が強すぎて、雰囲気で生きるという安定した人生を捨ててしまった。緩和したとはいえ、今の自分には世界がゲシュタルト崩壊のように奇妙な部分の集合にしか見えていない。

それでもふとしたことで雰囲気で世界と接続する感覚に何かと戻ろうとしてしまう。今書いている記録でさえ、結局のところそうした雰囲気に流されて書いている。こうした解釈の仕方でしか世界と関われないのに、無理して理解の側に立とうとするのは苦痛だ。だが今の自分にはもはやそれしか残されていない。そのジレンマに耐えきれなくなる。