人生

やっていきましょう

377日目

今日は疲れていて何も出来なかった。そのためずっと考え事をしていたが、ネガティブな感情が湧いてくるだけだった。

自分は随分前から壊れていて、先の希望がないまま生きることを肯定しなければならなくなっている。生きていれば良いことがあると人は言うが、結局はその場しのぎの安らぎであって、本当に自分が心から報われたことはない。

自分の使いものにならない人生を生かそうとすればするほど、自分の人生はこんなはずではなかった、心の安定が欲しかった、もっと頑張りたかったという弱々しい本音を吐くようになる。生きているだけで自分は余計に惨めな思いをしている。

生きづらさの問題は自分にとって相当深刻なものになっている。この問題から意識をそらすことはできず、毎日自己否定に陥っている。その度に運動をして疲労で何も考えられないようにしているが、たまに疲労と自己否定がうまく重なり合ってしまう日があり、そういう日は絶望の底に落ちる。

不幸の原因のひとつに妥協できないということがある。前進しなければ、改善しなければという強迫観念が、心の奥底でどこか高すぎる目標を設定し、今の自分を否定し続ける。明らかに成長と進歩を捨ててほどほどの人生を送ることが自分の主眼にあったら、かなり幸せになれると思っている。

自らの幼児性ゆえに現実を受け入れることができていない。挑戦する心というものが、今までの人生の重要な局面で何度も必要とされ、それゆえ不幸なことに自分の人格の中心を担うようになってしまったが、挑戦する心は既に壊れており、しかしそれがまだ自分の中に残っていると思い込んでいる。こうした幻影に囚われている限り、自分は不幸なままだろう。挑戦するということは安定を二の次にするということだからだ。

早いうちに見切りをつけて人生に妥協する方が幸せなのは分かっている。ほとんどの人間はそういった道を選び大人になっていく。自分は未だに大人になることができていない。何かに挑戦するという薔薇の道を選んでいる。しかもそれは分かりやすい目標ではない。自分には何もないという虚無感に対しての挑戦である。だから成功はまずあり得ない。何をしていいか分からず、何をしても納得できないからだ。

おそらく視点を変える必要がある。自分が妥協という言葉にイメージを抱いているものと、挑戦という言葉に連想されているイメージは、ひどく偏っていて限定的なものであるように思う。もし視野を広げて考えたなら、一般的に妥協とされているものでも自分の納得を得られるかもしれないし、今まで挑戦だと思っていたものが、実は単なる現実逃避、安定を得ようとしている自分を巧妙に隠すための詭弁であることが分かるかもしれない。

自分は無知だという大前提に立てば、いかに自分が少ない材料で物事を判断しているかが分かるだろう。精神の袋小路に陥っている今、とりあえず冷静になることを努め、過度な自己否定に陥らないよう意識しながら、自分の抱えている矛盾をひとつひとつ解きほぐし、自分を肯定できる方向に人生を導くようにすることを目指したい。

だがそれで解決するようには思えない。自分がどうしたいのか何も分かっていない。本当にこれはとりあえずの策でしかない。