人生

やっていきましょう

382日目

自己言及を続けていればいるほど自分が惨めになってくる。こうして自分の頭の中を記録に残し続けていると、自分が目を背けたがっている事実というものを嫌でも認識しなければならなくなる。自分の理解が不十分な点、それでも分かっていると思いたがっている自分の感情の拙さを認めなければならなくなる。今でさえ、こうした事実を隠蔽しようとしている自分がいた。

自己肯定感、あるいは満足というものは不都合な事実の忘却から来る。ひとつの例を取れば、自分にとって都合の良い解釈がそのまま正しいものとして信じられている状態にあるとき、人は幸せを感じる。実際に自分が他人から嫌われていても、誰かに歓迎されていると思っていられる限りは幸せである。自分が途方もない無知であっても、賢いと思っていられるうちは幸せである。

幸せになることを第一の目標とするなら自分に向けた懐疑など抱くべきではなく、ひたすら感情と内なる信仰に基づいて世界を都合よく解釈する必要がある。その結果として都合の良い答えを与えてくれる集団、指導者に追従し、都合の悪い事実、あるいは対立する解釈を持つ人間を敵とみなすことになろうと、その是非を間違っても問うてはならない。そうした懐疑の種は人間を不安にし、猜疑心を湧き立たせる。

奇妙なことに、自分は今まったく真逆の方向に進んでいる。自分はこれまで自分にとって都合の悪い事実を幾度となく明らかにしてきた。いくつか例をあげると、自分は多くの点において、様々な情報を適切に処理することができていない。空想に対して怒りと憎しみの感情を持ち、それらを自分の中で殺し続けていながらそれでも夢想を捨てきれていない。自分がよく分かっていると認めているものは実際のところ漠然とした気配であって、曖昧な直感によって自らを誤魔化し、物事の理解度を水増ししている。ブログは論理構成を意識して書いていない。気分の連想に頼り過ぎている、ということ。

こうした不都合な事実を毎日のように見続けていると、自分の中に確たる信念が芽生えにくい。自分という人間が醜く愚かで、本当にどうしようもない人間であるということを考えずにはいられなくなる。なぜこのようなことをしているか自分には分からない。自分は幸せになりたがっており、だが一方で現実と妄想の区別のつかない人間になりたくないとも思っている。信念や物語が虚構であると認めながら、それらの動機に頼りたがっている。これだけ自分の中の空想を嫌悪していながら、空想がなければ生きていけないということが分かっている。自分は矛盾だらけでひどく混乱している。

当初の目的としては、今まで自分は精神が不安定であるがために空想と現実の区別がついておらず、正確な判断力を欠いていたのでより現実的な思考に修正する必要があるということだった。そのためには安易な自尊心や自己肯定感を犠牲にしなければならない。

自分に欠けている視点はどこで線引きをするかということだ。このまま際限なく現実的に考えようとして空想を破壊し続けていると、自分の心が完全に壊れてしまうだろう。かといって自尊心を慰め続けていれば、現実を無視して挑戦を放棄する、これまでのような情けない生き方を送り続けることになってしまう。自分がこれから先どんな未来を送りたいのかを考えて物事の優先順位を定めることができれば、人生は今よりずっと単純になる。自分にいま必要なのは、物事を複雑に考えすぎて処理が追い付かなくなることではなく、自分が望んでいることを素直に受け入れることだ。

自分がこれからどうしたいのかということを考えたい。何もしたくない、やりたいことがないというのは疑いようのない事実だが、「望んだところで何になる」という態度は事実の投影ではなく、むしろ喪失感という感情に支配されて生まれたものだ。自分がどうしたいのかという問いに一定の答えを出すことは、それほど精神をかき乱されるほどの問題ではない。とりあえず自分がしたいと思うことをそのまま受け入れるだけでいい。その際、あれもこれもというよりは、今はこれ、これをするならばここまでやるということをちゃんと意識する。慣れてくれば自分の関心を否定する理由がないということに気づくはずだ。