人生

やっていきましょう

383日目

自分が想起しやすい情報は容易に認識することができ、それらを整理し言語化できる一方、初めて見聞きした情報を検討しようとすると思考が停止する。連想という情報運用の仕方のみで言葉と接していることが原因だ。自分は連想から切り離した論理的思考を行うことができていない。

この点について深刻に捉える必要があると強く感じている。物事の関係性について、自分は既知の連想の相互作用によってうまれた体系を参照して情報を認識しているという自覚がある。これは必ずしも事実や論理と一致するものではないから、放っておくと現実と妄想の区別がつかなくなる。思考を連想と切り離し論理や事実に基づいて思考することによって正気を保つ必要がある(「事実」と呼ぶべきものが本当に存在するかどうかという議論があるがここでは問題にしない。その実在がどうであれ、一般的な意味での「事実」と共生する道を選んだ以上、連想の身勝手な解釈をある程度食いとどめる必要がある)。

こういう場合がある。自分が現在知り得る限りの情報の中には存在しないが、しかし確かにそれは存在し、実際に世間や社会で運用されているものがある。たとえば法律が端的な例で、自分がそれらの問題をすこし見聞したときに、前情報無しではほとんどなにも理解できなかった。また科学者が自らの知見を述べている際にも、そこで何が問題になっているかを把握することができなかった。もう少し身近な例でいえば語学が例にあたり、日本語では漠然と聞いていても理解できるものがある一方、英語では注意して聞かないと半分も理解できていないものもある。

常識的に考えるならば、おそらくそこで問題とされているものの大半は論理的なつながりをもっている。つまりどの分野であれ論理的に考えられることができるのであれば、ある程度の理解は得られるはずである。だが実際、それらは論理的なつながりだけを持つわけではない。そこで扱われている固有の知識というものもまた含まれている。いわゆる専門的な知識と呼ぶべきもので、これは必ずしも自分の連想体系に基づいている身近なものではない。

脳科学者が脳の部位に対してある固有の名称を扱っている場合、その名称は必ずしもその名称である必要はなく、そういう風に呼ぶことにしようという合意によって決められている。そうした外部の都合によって決められた部位を、しかし自分は日常生活においてそうと呼ぶ必然性を感じていないのだから、単に「ここらへん」と呼ぶこと以外のリアリティを感じることができなくなっている。自分は脳科学者ではないから「ここらへん」と呼ぶことによる支障はほとんどないが、これが脳の機能を解明するという目的をもっている人間ならばそう呼ぶべきではない。部位には固有の名称が与えられて然るべきで、その差異は全体を部分を分けて詳細な理解を促すことに役立っている。

それぞれの分野には固有の知識が存在するということを否定してはいない。上記の通り、そうしなければ専門は成り立たないからだ。だが一方で、自分の理解しやすさ、という点ではこうした情報の詳細な分類が参入の妨げとなっている。

いわゆる「敷居が高い」という問題だ。自分の連想の中にはもともと存在しなかった、今現在の自分にとっては無意味な呼称の羅列を記憶し、整理することが自分には難しい。それはつまり、自分の中に持っている連想による既存の体系をある程度破壊し、多くの人間が検討したことによってその正当性を確立した連想の外部にある知の体系を吸収し、自らを軌道修正しなければならないということを意味する。

こうするためには情報に対してある程度冷めた目線を持つ必要があり、この分野のこの場合にはこう呼ぶということを機械的に処理していく必要がある。自分はこれができていない。自分は自分にとってその言葉が身近かどうかを考えてしまう。昔からの悪い癖だ。世界は必ずしも自分にとって身近であるわけではない。だからある程度は、冷めた目線で自分と身近ではない言葉や情報とも関わっていかなければならない。

今自分にできることは、日常的に論理的に考える習慣をつけることだ。自分が何でも理解できると思いあがらないことだ。まずは分からないことは素直に認め、しかし無理解を自責の材料とはせず、辞書なり解説なりを複数参照にして理解を固める。それでも分からない場合は諦めて、一旦寝かせるという選択も考える。また他者に対する見栄から知ろうとするのではなく、純粋な知的好奇心から調べる癖をつける。過度に焦らず、余裕をもって構える姿勢でいる。