人生

やっていきましょう

385日目

他人と言葉を交わしているとき、あるいは一方的にこちらが耳で情報を聞いているとき、相手の言葉をほとんど聞いていないことがある。相手の情報をそのまま受け止めるのではなく、情報から連想される自らの思考の方に意識が向いてしまい、聞き返されたときなどには咄嗟の応答ができず苦慮することが多い。

これがメールやチャットでのやり取りの場合は、ログが残るので見逃した情報をそのまま正確に追いやすいが、会話となると録音でもしない限り情報を辿ることができないので、相手にもう一度聞き直さなければならない。だがこれは相手に同じことを説明させるという点で負担と手間をかけてしまっている。

対人的な仕事に対する恐怖心はここから来ている。「何度言わせるんだ」「1度で理解しろ」といわれることが恐ろしく、1度で相手の話を聞かなければならないと過度に注意を向ける。その割にはパニックで聞き落としが多く、黙って抱えがちになりそうになる。社会経験が乏しく一度として叱責されたことはないのだが、いつか自分が注意を向けようとしているのに向けられていないことを言い訳、自己弁護として捉えられることを恐れている。それが社会に積極的に参加できていない壁になっている。

この問題については以前から考えてきたが、ある程度の答えは出ている。

まずは不安によって歪められた解釈よりも事実を優先させるということ。以前バイトをしたとき、人にミスを叱られるという不安に駆られそうになったが、実際叱られることもなく何の問題もないまま終わってしまった。そこで気づいたことだが、そもそも他人は自分の人格にそれほど興味はなく、叱責されるとすればまず失敗という事実にたいして行われるはずだ。そして人格否定があるとすればそれは副次的なものでしかない。だから目の前の要求、指示、目的だけに注意さえしていればよく、それ以上の心配事は余計であると判断した。これにより対人面でパニックを抱くことはかなり抑えられているように思う。

つぎに相手の重要な話にはメモを取るということ。社会は何かと口頭による情報伝達が主流となっており、文字に記すよりも口に出した方が手間がかからないと考えている人間が大半であるように思う。自分ははじめから文字情報として保存しておけばいちいち相手に説明する手間が省け、いつでも誰でもそれを参照すればよく、少なくとも口頭よりは誤解が生じにくいと考えているのだが、やはりそれは自分の都合でしかない。他人との交流を考えたときほとんどが口頭によって伝達されるのであれば、自分で文章化して、認識しやすい情報に変換する必要がある。

最後に無駄な認識を省き要点を絞るということだ。これは自分が実際に陥っていたものだが、パニックになっているとすべての情報を満遍なく確実に把握していなければならないと考えすぎてしまう。だがそうなると実際気にするほどでもない細かい部分に意識が周り、全体像を把握する前に脳が情報を許容できなくなってしまう。こうした認知の在り方は芸術に向いているような気もするが、他人との協力という点では避けたほうがいいように思う。あまり無理せず自分の脳に収集できる範囲の情報を一度に獲得する。要点だけを把握して必要な情報の体系をつくり、必要に応じて継ぎ足していく。

これらは自分にとって実現が難しいが、まず大前提に不安や恐怖に意識を持っていかれないということが重要だ。安心という基盤を持って情報と接すれば、メモを取り要点を絞った理解をするというのもそれほど難しいことではないということが分かってくる。人に聞き返すこともそれほど負担ではなくなる。おそらく生きている人間の多くは、心が安定しているから人と交流することができている。

この問題は何度と議論してきたことだが、その都度確認する必要があると感じている。それだけ重要なことであるように思う。またそれによって、最低限の安定を構築するという今の自分が掲げている目標の妥当性を再確認できる。こうした認識を自分の中で無意識的に持っていられるようになれば、自分には無理だと諦めていた多くのことが不可能ではないと思えるようになると思う。