人生

やっていきましょう

396日目

精神が安定しない。どうせ何をやっても無駄だという思いが強い。何かをやろうという気が起こらない。何も考えられない。

今日はひどく不安を覚えた。先日述べた通り、未来に対する不安が大きい。膨大な無力感に心が圧迫されているような感じがしている。ただ無気力なのではなく、無力であることに対する悔しさがある。無力であるからこそ今自分はここにいて、自分に正当性を持たせられないでいる。

無力であることが評価されない時代に自分は生きている。力があるということ、才能があるということ、能力があるということが何より評価される。何も持たないということはそれだけで罪であり、皆が必死に何かになろう、なにかを得ようとしている。それが悪いことだとはほとんど思わないが、それが自分の生きづらさの一因にもなっているような気がしている。

無能であるということが耐えられず、自分という人間が脆く弱みをさらけ出していることに耐えられず、しかし現実はそうであるという事実を突きつけてくる。それで精神を病んでしまった。そんなはずはない、やればできるのだと思い、自分を守るために妄想に駆られ、妄想を現実にすり替えるというのが自分の行動の動機であった。だがそれにも限度があり、結局は折れてしまった。

要するに、自分の生きづらさとは能力がないことに対する過度なコンプレックスに由来している。また同時に、能力がないために他人から叱責されることを過度に恐れている。ただそれだけだ。劣等感と恐怖だけが自分の生きづらさのすべてであり、それらが改善されない限り、自分の苦しみは終わらない。自分が無能であるという現実に耐えられないが、かといってそうである自分に諦めたくもない。

確かな目で見れば分かる通り、努力はそれほど大変なことではない。これは虚勢を張っているわけではない。努力それ自体は先人の教えに倣うか自ら方針を見出すかによって、一連の動作のために膨大な時間を辛抱強くただ投じるだけであり、その質がいかなるものであれ、とりあえずは可能であるという見通しがついている(随分と傲慢な言い方だが自分に自信があるわけではまったくない。実際これが難しいのだということは十分承知している。ここでは実現性がありそれは自分にも可能だということを強調したい)。

問題は自ら方針を定められないということである。劣等感と恐怖が強すぎて、自分の願望に率直になれていない。自分が欲しいとおもったものからは目を背ける。金がないからと自分を納得させる。手に入れたところで自分の満足にならないということを知っている。だから願望を捻じ曲げる。願望は行動指針の根幹をなす。願望なきところに動機はない。自分は願望を捻じ曲げ続けた果てにほとんど願望を持たなくなった。何に触れても感情が靡くということが減った。微弱な願望をどうにか生かしてようやく生存の糧にしている。だがそれもいつまでもつか分からない。

望むということの強さを改めて知る。自分の経験からもそれは分かっている。かつて自分は努力の末の成果を強く望んでいた。本当に望んでいたことは常に行動に繋がり、少しのことではブレなかった。望んでいて本気で取りに行こうとしている時分には、全身全霊で取り組んでいる。望みが持続している限り動機は生まれ、行動に繋がり続ける。