人生

やっていきましょう

397日目

 明らかに今の自分は死にかけたネズミで、既に精神が死んでおり改善の見込みなどないのに、どうにか改善してほしい、せめて僅かな延命の希望を持ちたいと必死に祈り続けている憐れな存在だ。そうした祈りが記録という様式に発展し、今に至るまで持続していることに驚愕を隠せない。この宗教的熱意が無意味な奇行を1年持続させたのだ。こうとでもすれば自分が再び生者の身に戻れるとでも思っていたのか。だが事実が示す通り、心はすでに死んでいる。目標を抱くという強い願望も潰え、望んでいない目標を無理に打ち立てることの違和感に耐えきれず投げ出してしまう。小説を書く、絵を描くと自分に言い聞かせたときのあの空虚さを思いだすがよい。ゲームを作ると思ったとき、そこにあったのは楽しいという感情ではなく、純粋に遺留物に対する事後処理の感情だった。自分にできることはただ自らの劣等感と恐怖を呪い続けるということだけで、そうした不安に耐えきれず直視できなくなったら、今度は世間や他人といった分かりやすい藁人形に転嫁する。そういう自分の弱さが現実であるということをまた認められず、たまに道化を演じなどするが、後々振り返ってその空虚さが心に刺さり、自虐などもうたくさんなので何も考えないふりをしている。だが実際はどうにもならない問題についてあまりに考えすぎている。

思考をやめて心地の良い言葉だけに耳を傾けよ、自尊とは自らの無力を誤魔化す虚しい妄想だが生きる上では欠かせないものだ、あらゆる人間はこの世界に歓迎されていないなどと思ってはならない、それは事実に近いが生きるということは事実に従って生きることではない、自分に都合の良い妄想に浸って、つまり目と耳を塞いで、自分の世界の住人になるということが生きるということだ、かくして自尊の心は芽生え始める。

なぜそれを拒絶するのか、なぜそれを受け入れないのか。皆そうやって生きているのに、なぜ自分はそうしないのか。

やはりそれは自分が妄想を抱けないことに対する嫉妬からきている。与えられた規範に対する強迫観念、自分の独自性を獲得できないことの恐れ、願望と動機の欠落、無能感、様々な要因が絡んで、夢や願望を抹殺し現実を見るということにひとまず生きる意味を見出した。あの時点で、妄想や願望と共に死ぬことを選ばず、自分にとって不都合で、苦しく受け入れがたい現実を見て生きることを選んだのだった。だが実際のところ、空想の世界の妄想を糧に現実の困難に立ち向かおうとする手合いにルサンチマンを抱いている。現実に空想を生かしてはならないという法はないし、むしろ糧にこそなるならば大いに賞賛されるべきことではあるが、こと自分にはそれが不都合で悔しいので、そこに何らかの優位を見出そうとしたのだろう、安易な冷笑に走りむしろ虚無的な思想こそ優れたものの見方だと思いがちになる。だがやはり本当は妄想とともに生きたかったので、冷笑をすればするだけ惨めになる。

本来願望に基づく妄想とともに生き続けることは自明のことであり、よほど特別な事情がない限り否定されることはない。夢を生かそう、望みをかなえようという社会全体の雰囲気を自分は肌に感じている。望み、それを叶えるということが自明である以上、そうなるべくアクションを起こそうとする人が当然出てくる。彼らは自分が望み、叶えることに疑念がない(あるいは疑念を掃おうとする)。そうすることに不都合なことがないから、ただそうしている。

そうすることが不都合な人間とは、たとえば自分のことのような場合を言う。規範に対する脅迫観念が強すぎて、従順こそが生存の基本戦略となった自分。本当はそうでないはずなのに、利他的に振舞うことでしか社会と繋がりを持てない自分。対立は和を乱すから、ほとんどの場合は平和的に解決されねばならないと考えている自分。そう考えているのは自分だけで、一方で自分の不安の種をまったく抱かず利己的に生きている人間が存在していることを憎しみ、しかし恐れている自分。それに憧れる勇気、立ち向かう勇気がない自分。与えられた価値に服従し、自分のための価値を確立できない、いわゆる「親殺し」ができない自分。

何かを変える勇気もなく、適応する勇気もなく、無力なままで力を望めず、規範に従ってただ生きることを漠然と是と捉え、そうしている間は守られているというずるい感情に安心する一方、その結果自分がまったく欠落していることをそのまま受け入れられない、こうした人間をそのまま生かすならば、世をぐれた目で見渡す他にない。だが冷笑すら、もはや自分には満足のいくものではない。最後の安住の地を自ら去り、目の前にはただ茫然と広がる虚無しかない。そこに接続する能力も勇気も自分にはない。だが自分には主体性を持てないのだから、自ら進むことも、自力で抜け出すこともできない。どこまでも受け身であり、虚無の方へ引き寄せられていくのに身を任せている。長居をすれば発狂は避けられない。ふとどうしようもなくなって突発的に空想の側に戻る。ゲームや映画など、空想に救われているということが認めがたく惨めに思うが、そうすることで精神の安定が回復される。ただそれを繰り返している。意味と無意味の間を行き来して、正気と狂気を往復する。

自分はどうしたいのかわからない。何をやっているのか。長期的な視野を見据えて生きるつもりだったが、とにかく自分が報われる人生を送りたかったはずだったが、何もできなかった。今から何かできることは明らかで、努力によって現状が改善されることは確実で、そうすることが最も打算的であると分かっていながら、そしてそのための準備がほとんど整っていながら、自分の望みという最も根本的な部分が欠落しているために何もできずにいる。望みがない自分の現状は、意味と無意味の間を行く当てもなく彷徨っているだけで、まったく目的も生産性もない。それでいいと思い始めている自分が嫌だ。だが自分には自分の意思を持つ力がない。