人生

やっていきましょう

402日目

実際のところ、自分の考えは思いついたことと事実を明確に区別できていない。このことは何度でも強調していきたい。事実と解釈はまったく異なっている。解釈は自分に都合のいい見方を提供するが、事実は常に自分にとって都合が良いものとは限らない。重なる部分があっても、すべては一致しない。

人からそう言われたり自分で意識している分には何を当たり前のことを、と思うかもしれないが、いつでも自分でその情報を引き出し、自発的に注意を向けられるようになるには相当な苦労を伴う。とくにこの種の問題には答えがなく、ほとんどが自分に都合の悪いことばかりなので向き合い続けることが困難だ。

事実を見れば自分の思考の信憑性が著しく乏しいことが分かる。何事も「というイメージがある」という語尾なしには語れない。それは何の裏付けもなく、ただ自分の頭に想起したという事実のみをもって自らの連想の特権に与っている。連想しやすいイメージだったので、そう思いやすかったというだけの話である。本当にただそれだけのことにすぎない。

実際自分は知らないことがあまりに多くありすぎる。かつて自分は知っていることがすべて自明でなく、まったくの無知であることこそが自明であるという、絶望に近い価値転換が生じた。それは少しでも自分の寄る辺となる価値がどこにもないことを自分に悟らせたが、以降明らかに正気の沙汰ではない精神状態にある。つまり多くの人間にありがちなように、自分もまた無知の気づきからその重大さを受け止められず、懐疑主義に傾倒したのである。

懐疑に陥った先は、すべてが何もわからず何も言及できないので目を閉じて耳を塞ぎ、自らの無知に開き直ることになるだろうということは目に見えている。今の自分はこれに近い。事実を誤魔化すことで自分が無知であることを忘れようとしている。

知るという特権を得るにはあまりに自分は賢くない。これは世間一般の人間と比べても明らかな事実だ。自分にとって最も都合の悪い事実を言うなら、四の五の言わずさっさと知識を吸収するべきだ。自分で何でも思いつき検討されたものでなければならないというのは傲慢であり、学ぶことを放棄して自らの無知の絶望をただ騒ぎ立てるのは愚かだ。だが自分はそうしている。無知を悟ったなら速やかに学習し自分を修正させることが重要なのだが、自分にはそれができていない。

冒頭で述べた通り、解釈と事実を混合しているからこうしたことが起こる。解釈と事実をないまぜにしているから、自らの無知に耐えられないのだ。恥ずかしいことだが、漠然と何かを知り得ているという自尊を拠り所にしていたのが自分だ。だからかつて自分は事実を知っているという主観的な思い込みが崩れ去ったとき、自らの世界観を同時に破壊しなければならなかった。それ以降、何を頑張ったところでどうせ自分が無知であることは変わらないので、自分の自尊感情は戻ってこないという諦めに自分は屈服している。

解釈と事実を混合するようになった経緯はいくつかある。ひとつ例を挙げれば学校生活にまで遡る。これもまた自分に不都合な事実だが、自分は元々勉強ができた方ではなく、また自称進学校にありがちな勉強ができないというだけで人権が与えられないという雰囲気に晒され続け、それゆえ勉強に対して大きなコンプレックスを抱いていた。勉強ができる賢い自分になりたいという憧れがあった反面、そうでないという現実が重くのしかかり、元々精神が不安定な面と相まって事実と解釈を混合するようになっていた。

事実を恐れず言うなら、勉強とは不安定な自尊感情を獲得し何者かになるための物語ではない。勉強とは自らの無知を修正し、何らかの知識や方法、あるいは思想や文化を獲得し、今後の人生に生かすための手段である。無知であることは無知であるという事実以外の何ものも意味しない。無知である自分に生きる価値がないという解釈は、無知である事実が導き出す帰結とイコールではない。

事実と解釈は分けて考えられる。そのことを常に意識していきたい。自らの偏見を極力排除することが今の自分には必要だ。ただし現実的でありすぎてもいけない。それは単なる現状追認に終わる。未来に対して少しでも変化をもたらそうとするなら、現実的ではない何か妄想に近いビジョンを抱いた方がいい。それは解釈の担う役割だ。