人生

やっていきましょう

406日目

事実を確認した。

これまで幾度となく自省を繰り返してきたが、肝心な部分についての言及は巧妙に避けている。

つまりここ数ヶ月の事態を見る限り、自分は何もしていない。そして明らかな事実は1年が過ぎたということだ。実際のところ、時の流れに対する自分の見込みが甘すぎる。1年という歳月を漠然とした長い期間と捉え、それらが365日に分割可能であるということを忘れている。

すべては不安の忘却のために費やされている。忘却こそ幸福への第一歩である。しかしあまりにも安易な選択だ。あれほど真剣に人生と向き合ってきながら、その結果がこれなのか。問題の放棄、問題の忘却。事実を隠蔽し、狭い世界の中で自己欺瞞に陥っている。

すべて本当のことを暴き出す。自分がどう思いたがっていようが、明らかに自分は無能だ。相対的に見て、多くの人間と比較して、適切な社会生活を送れないという点で劣っている。だが自分はどうにか無能ではないと思いたがっている。それで妄想を滲ませ、無能であることを懸命に隠そうとする。だが自分は現実を見ている。事実は無能だと宣言する。

無能である根拠は、不安に対して絶大なる価値づけを行なっているということだ。不安が何にも増して人生を支配している。そして不安が、何もしないこと、問題を回避することの強い動機付けになっている。

不安だから何もしない。すべてはこの一言に尽きる。不安を理由に何もせずただ朽ちていく自分を正当化している。自分は傷つきもはや立ち上がれないという宗教を信じている。その教典に不都合な事実があれば強者の理論だと反論し、あまりにも脆く弱々しい、自己憐憫を言い訳にする。

事実を宣言する。自分の現状と特質を見れば、問題に対して回避的な行動が貫かれるのは目に見えている。これは「自分には何をやっても無駄」という宗教的確信を根拠にしているのだから、少しの努力で改善できるものではない。この強固なバイアスを前に、今日一日取り組んだ小さな前進と成長の物語などは霞んで見える。あらゆるものに先行してすべては無駄な努力であるという真理があり、その信仰を告白することで自分は何者かになれていると信じている。

事実は不安を価値づけするために存在しているわけではない。事実は事実だ。それをどう生かすかは個人の選択だ。自分は事実を不安の材料にしている。だから今ある現実がこれからも変わらないという現状追認になりやすい。

自分の望みをいえば、事実は変化のための材料であって欲しい。事実は自分に力を与えるものであって欲しい。例えば昨日のように13km歩いたことで得られた確かな自信を与えるものであって欲しい。そしてそのことが今後20km、100kmを歩く動機になって欲しい。

事実に基づいた評価において自分を肯定できることが何より望ましい。少なくとも自分はそう思う。事実に基づかない妄想が自尊の根拠になっている状態は危うい。事実の忘却によって得られた自尊は、自分の回避的な行動、忘却の動機付けをますます強化する(これは人による。事実に基づかない妄想が信念となり行動を促す場合もある)。

自分の人生を不安に支配させない。今後の人生においてこの実現が中心的な課題となる。不安に対抗する武器は、事実に基づいて自分の実力を適切に評価するということだ。気恥ずかしさや僻み根性に屈してはならない。事実が自分に利するものであるならば、それは自分の糧にする。

このことを忘れてはならない。自分は無能であるということは明確な事実だ。もしかしたらということはない。何もしていないのだから、自分は無能だ。だがそれを未来に延長させる必要はまったくない。この点が最も重要だ。無能であることは自尊を損なわせるものではなく、ただ能力的な起点を確認するためのものでしかない。

起点に立ち止まり続けていること、これが事実の現状追認を生み出し、不安を過度に価値づける決定的な要因であるように思う。月並みだが、ここから一歩何かを踏み出さなければ何も変わらない。まずは今できることから始める。運動を持続させ、本を読み終える。確かな実力がついたと判断したら次に行く。