人生

やっていきましょう

409日目

生き恥を晒すという言葉が今の現状を表すのに最も適切な表現であって、そのことを度々思い返す。自分が今生きているということは人間としての尊厳を捨ててでも泥水を啜って生きるということに等しく、世の中の人間に対して申し訳ない気持ちでいっぱいになる。些細なことで満足し幸福を感じることがその場しのぎの忘却にすぎず、本当に向き合わなければいけない問題に対しては先延ばしをするばかりで根本的な解決には至ってないということを実感している。これらはすべて茶番にすぎず、仮初の満足によって生の肯定を演技している。

精神が既に死んでいる状態で何をしたところで無駄だと思う。本当に何も楽しめない。自分をこの世に繋ぎとめているのは単なる世間体だ。自分は挫折を通じて得た反省を生かして、試行錯誤の末に再び立ち上がるというシナリオを、世間に向けて発信している。こうした姿勢を世間に発信し続ける事で、自分は生の共犯者であるというシグナルを社会に向けて発している。自分は未だ、社会によって尊厳が与えられた人間でありたいのだ。

だから醜く茶番を行っている。今日は何km走った。そこまで自分に負荷をかけられた。それは自分が向上し自立することに資する偉大な決断だ。だから自分には生きる価値がある。そういう姿勢で生を肯定している振りをする。あるいはゲームでもいい。ダークソウル3をやった、Apexをやった、スマブラをやった。果敢に取り組んで勝利を掴んだ。他を圧倒するこの喜びがあってこそ生の実感がある。それで気分を良くする。だがそれも偽物だ。結局それが何になったかと振り返れば、何もないことが分かる。

何をしても、それが自分の人生に関わっているとは思えない。あらゆるものが自分から切断されている。実際は違う。自分が行動したこと、考えたことが自分の人生を形作る。だがそれに気づく前に、自分は素朴な解釈を自責と虚無によって白紙に戻している。何をしても消されるのだから、虚しくなるのは当然だ。

自殺についてしばらく考えていた。自分がなぜ未だ生きているのかわからない。自分は本当に生きている理由がない。新しい自分を見つけようとしてサークルの新歓に行ったとき、自分がなぜここにいるのか本当に分からなくなった経験と似た感覚がある。あまりにも場違いで、目障りで迷惑な存在が、少し関心があったという邪な理由だけで、なぜかそこにいる。そのことを居座る本人が一番分かっている。なぜ自分は消えないのか。結局そのサークルはあまりにも健全で輝いていたので自分は行かなくなった。同じことがいえるのではないか。この世界は健全で輝いていることが自明とされる。そこに自分がたまたま生まれた。自分はあのサークル以上に頑張って適応しようとした。しかし頑張って無理をしようとすればするほど、キラキラ輝いている世間に不釣り合いな自分というものが浮き彫りになってくる。その苦痛に耐えられない。自分はどこへいっても場違いな人間だ。どの集団に属し、どの人間と会話しても、自分がそこにいる自明さを感じられないでいる。だとすれば、なぜ自分は自ら撤退しないのか。そういう選択肢もあっていいはずだ。

別の見方もある。この世の自明とされている価値観がなぜ自明であるかといえば、支配的な価値観を持った人間が自明の網を張っているからだ。だから自分も同じように、自分に由来する自分独自の自明の価値観を持って、生存に参加していけばいいという考え方だ。これは妥当だと思う。合わない場所、合わない人間からは距離を取り、自分の満足が得られる状況を構築すればいい。それを否定する法律は今のところ存在しない。自由であることの利点といえる。

だからこそ一時期このことに心血を注いだ。自分は本当はやりたいことがある。だが今までそれを必死に隠し続けてきた。今こそそれを明らかにしそのことだけに人生を注力する。そういうつもりで今度は独自性の探求へと向かおうとした。だがこれも無駄だった。明らかに自分のやりたいことは死滅し、「やりたかったこと」に変わっていた。本来の自分、本当の自分とよばれる原始の願望も、長い年月をかけて抑圧されすぎたことで使い物にならなくなった。これも例のサークルと同じ違和感だ。自分の中で価値が死滅していることが分かっていながら、必死の救命活動のつもりか自分はそれが本当に楽しんでいると思い込もうとした。だがそうすればそうするほど惨めになる。かつて幼い頃自分を支えていたであろう素朴な関心は、もう生き返ることがなかった。なのになぜまだそこに居座る必要があるか分からなくなり、すべてを捨てた。

自分の居場所がどこにもない。世間からも弾かれ、自分からも弾かれ、最後に自分に残されたのは生存しているという一点だけだ。これを捨てて生存を終わらせるか、僅かに残された可能性を持ってまだ生きるかを近いうちに選ばなければならない。いずれにせよ、なぜ自分がまだここにいるか分からないでいる、ということは事実だ。これまでのように自分がここに居るのは不釣り合いだから逃げるのか、今までのやり方とは別の新たな道を模索するのかを検討する必要がある。

自分の僅かな可能性について最後に記す。これまでの試みはいずれも他人本位であったという事実がある。世間一般の価値観に適応しようとしたことや、自分のやりたかったことを発掘する試みは、すべて他人からの勧めを起点として起こったものである。それに対して自分は何となく受け入れていたが、それらは自分の決断によって得たものではなかった。要するに自分の軸の構築を他人に委ねてしまっていた。

大体こうした人間は後になって自分の軸を他人に委ねたことで失ったものに気づくと途端に激高し、すべて他人のせいにするというのが通例だ。これは自分にもありがちな悪い傾向だと思う。確かにそれは事実の一面であるかもしれないが、その軸を他人に委ねた自分の責任でもあることも認めなければならない。幸い自分はそのことに少しだけ気づいている。だからどんなに親しい人間であっても他人を切り離して考えるということを実践した方がいいだろうと考え始めている。誘いや提言に対して何でも受け入れるのではなく、自分の判断、自分の決断を必ず介入させる。時には流されてもいいのだが、自分が根拠をもってそれを支持したということを常に確認する。自分はこう考えるということに責任を持つ。責任を持つ限りにおいて自分は自分を主張することができる。

要するに、世間の価値観に適応するのでもなく、かつて自分に関心があったものを、対人関係の維持のために今でも関心があると嘘をつくのでもなく、何者にも侵犯させない自分というものを構築するという可能性だ。そのようにして得た強い自分をもって世界や他者と関わっていくことができれば、自分はまだ死なずに済むかもしれない。

ただし淡い期待だ。本心を言えば死にたくないが、これ以上自分が場違いであるという感覚に精神をやられ続けるとどうなるかわからない。自分が正気を保っていられるうちに、妥当な選択を見極めていきたい。