人生

やっていきましょう

411日目

自分を他者から分離するということがようやく分かりかけてきた。自分は必ずしも他人に適う必要はなく、自分を優先させることができる。

自分は他人の良き理解者である必要はなく、他人との繋がりを維持するために無理をする必要もない。必要であればすべて捨ててしまって良い。すべてを拒んでもよい。自分にはその選択を決める力がある。

自殺の問題について類似の考えを抱く。自殺というと親族への迷惑、社会への迷惑ということが歯止めになり、結局のところ他者の都合で生かされることになる。この選択権の無さが自分の意思を奪っている。自分は自分の意思を持って死を選ぶことができる。その力が自分にはある。これが自分の自由意思の証明になる。

それは生についても言える。自分は自分の意思で生きることができる。その力が自分にはある。こうした解釈を権利と呼んでも良い。自分は自分の選択によって立つことができる。

自分に権力を与える。自分が第一に優先される。いかなる社会の良識を前にしても、自分は常に世間に屈する必要はない。自分は自分の考えを持っている。意見が対立すれば戦う。価値観が合わず人が離れるならそれは仕方ない。

善意のために自分の心身を酷使する必要はない。自分は善意を自分の都合によって選択できる。自分の都合を優先させる。都合が悪ければ他人を切り捨てる。

これからは誰かに自分を分かってもらおうとはしない。他人は自分の苦しみを分かるわけがない。だから切り捨てる。自分の中から完全に遮断する。

遮断した上で人と関わることができる。自分の考えは他人に主張できる。自分が何を望み、どういった要望があるのかを伝える力がある。思考を停止して常に相手に譲り続ける必要はない。

ひとつだけ重要なことがある。いかなる状況下であれ、地に足のついた思考を努めるということ。これだけは絶対に失ってはならない。

今までの認知の歪みを考えると、その反動で過剰に自己を優先しすぎるあまり自分に都合の良い妄想とそうでない現実の区別ができなくなる可能性がある。今までの反動で他人に対して攻撃的でぶっきらぼうな態度を取りたくなるかもしれないが、それが他人に意味することを考えるべきだ。

それにしても自分を優先させることには変わらない。むやみに世間や他人の都合に合わせることはしない。自我に依って立つ。自分は世間の都合の良い奴隷ではない。

 

そうした目線に立ってふと思ったことがある。自分の知人には意外と個人を個人として扱ってくれている人間が多かった。このことには気づかなかった。今まで自分は他者一般に対し話を合わせ、機会を譲り続け、決して本音を言わず、提案にはほとんど何でも賛同してきた。かなりのストレスを自分に課したが、そうする代わりに自分が未だ知人友人の関係であると認めたがっていた。しかし他人は決して自分に対する関係維持のために無理をするということはしなかった。自分の都合を優先させ、断るときは断り、意見が合わないときは理解を示さなかった。自分はこの非対称に不満を持っていた。なぜ自分ばかりが他人の顔色を伺って何でも合わせなければならないのか。それで自分が相当ストレスを抱えているにもかかわらず、他人は他人の都合から出ようとしない。自分の苦労を分かろうともしない。そこに不当さを感じていた。

自分でもかなり気持ち悪い話をしている。だがかつてそう感じていた時期があったのは事実だ。それでも自分が他人の都合でなく、自分の都合によって生きるという目線に立ったとき、他人は自分を個としてリスペクトしてくれていたのだと気がついた。知人たちは自分と同様に相手もまた自分の都合で生きているという前提を持っており、迂闊に他人の都合に侵犯しないでくれていた。彼らは各々が自分の都合を生かしながら緩やかに繋がるという考えを無意識に持っていた。

自分はおそらく、そうした個人主義を前提としてはいなかった。ほとんどの人生をひとりで生きてきた身としては認めたくないだろうが、自分はどこか全体主義的傾向がある。個人が集まった時にはどこか集団の利益のために奉仕しなければならないと思っている。これは自分の積極的な意思というよりは、今まで所属していた集団下に適応しようとして身に付けた消極的な態度だ。

ある集団では同胞意識を強固にするために催し物を行うことがある。クラスの修学旅行、学校の学園祭、会社の飲み会、教祖による宗教行事、ゲームのギルドの集会。それらの参加を個人は選ぶことができるが、拒んだ場合には集団に対する反逆者とみなされ、構成員の心象は悪くなる。ニュースで似たような話題をよく耳にする。

自分は小さい頃からそうした状況下に生きていた。だから個人の都合で拒むことを恐れ、集団の奉仕者となるべくあれこれ忖度していた。そのストレスを抱えたまま別の集団に移行するので、いずれの集団の構成員も集団に資する態度を表明しなければならないと思っていた。気がつけば自分もまた集団のための奉仕を立案することに躍起になり、拒んだ者は反逆者とみなしていた。

自分が個を確立できなかった理由がそれだ。集団の奉仕者という他律的アイデンティティに支配されていたのだ。だがそれがすべてではない。最近自分は、自分を他者から分離して生きるということがどれほど精神的に楽か気付かされた。無論個人主義は万能ではないが、少なくとも自分が存在しない監視の目を恐れて集団のために無理をしなくて良いという点においては選ぶ価値がある。

自分はこれから自分の都合に合うときに限り相手に合わせる。何でも他人の意見を自分の意見と折衷する必要はない。拒むときは拒む。認めるときは認める。そうして生まれた対等な関係をもって世を渡り歩く。