人生

やっていきましょう

413日目

自分が事実と呼んでいるものは事実らしきものでしかない。事実というラベルによって思考の方向性をある程度定めただけにすぎない。そこから先は気分に任せていて、吟味不十分のまま解決を妥協する。この場合、事実とはほとんど納得に等しい。

専門的な背景が存在せず思いつきと印象を述べることしかできない自分にとって、事実を述べるということは事実の理解に妥協した個人的な印象を語るということのみを意味する。印象は原始的な直感と直接的な経験による連想からある程度は事実に沿って描写されるだろうが、論理を徹底する思考や意思を欠いているために、暗黙のうちに認識の誤謬を抱いている可能性を含んでいる。

事実というものを自分の中で厳密に定義しないまま、事実に基づいた思考を求めている。また同様に事実を優先させる目的も明確にしないまま、現実的に考える必要性を訴えている。今の自分の現状を率直に言うならば、いかなる定義、いかなる目的も持たないまま、事実を優先させるという教義(ドグマ)を崇拝し、その自明性に基づいて内面上の世界を再構築しようと試みている。

これは自分の中で内面上の安定を緊急に確保する必要があるという要請から、かつて存在し今では使い物にならなくなった価値観に代わる新たなバックボーンを構築しようと試みた結果である。価値観というのは自明という宗教的な信念に由来し、価値に対する無謬性を信頼できるものである必要があり、自分にとってのそれは事実といえるもの以外の何ものでもなかったため、事実なる教義に鞍替えしただけの話である。要するに安定の根源を事実に求めたというだけのことだ。

おそらくこれが隠された自分の目的なのだ。安定のために事実を求めた。だから実際は事実を明らかにしたいわけではない。事実という圧倒的に不都合な手続きを自分に課した先の、信頼における認識、これを自分は事実と呼んで安心の根拠にしようとしていた。

しかし安心を得ることが目的ならば、事実に基づく必要はない。この指摘は正しい。事実は自らの信念の反例をいくらでもあぶり出すので、可能であれば事実から離れすみやかに都合の良い妄想の世界に入り浸ることが望ましい。自分の感じた素朴な好意は、事実に基づく評価によっていとも簡単に色あせる。事実は対象に対して好意を抱いているという以外のことを宣言しない。

しかし自分が自分であるためには、どうしても事実に基づく必要があると感じている。この根拠について不都合な答えを出すとするなら、自分の認識の粗を改善し尽くしたいという野望、自分が理解してもらえなかったというトラウマ、話の通じない人間に対する極度な敵対心、しかし自分もまた話の通じない無理解な側の人間であるということを認められない苛立ち、社会に対する見捨てられ不安、こうしたドス黒い感情を抑えきれず単に「背伸び」した人間になることへの恐怖と警戒(これは挫折経験から得た新たな答えだ)、そして(とてもくだらない理由だが)単に冷笑したいからという動機だろう。これらが自分の胸に事実という太い針を延々刺し続ける理由であるように思う。

これらは明らかに歪んでいる。不都合な事実を自尊感情の根拠にするということは、精神の安定を図るために自傷行為に及ぶことの矛盾に類するものだ。自分は安定しようとして更に傷つく。それでますます不安定になる。事実に対する安定した志向というのは、純粋な探究心や確かな向上心といった能動的な態度に由来する。これは違う。自分の価値観に自信が持てず確かな信頼が得られないから、仕方なく自分に不都合なフィルターを課しているように見える。自分が望んでいないことを自分に課している。これで安定するはずがない。不都合な事実を受け入れ続けていれば、ますます精神の安定は程遠くなる。

これまで見てきた中で明らかにされているように、自分が事実と呼んでいるものは不都合な事実である場合が多い。事実は大別して不都合な事実と好都合な事実の2種に分けられる。自分の場合、都合の良い事実を無意識のうちになかったことにしている。そして不都合な事実を事実と呼んでいる。そして不都合な事実に自分を晒し続け、それを自尊の根拠にしている。

これが問題だ。だから都合の良い事実にも目をむける必要がある。このことは今まで何度も強調してきたことだ。しかし自分は本当に自分を肯定することができない人間で、気が付けば自然と自責の材料を集めている。もはや病的といっていいくらい、自分は自尊感情を破壊し劣等感を増長させることに躍起になっている。

だから一旦、事実による無際限な言及を抑えることにする。そして事実を自尊の根拠にするという態度を改める。自尊感情は事実に対する痛ましいスクリーニングからではなく、自分が能動的に行う活動のなかで育んでいく。自分がそれを選び、それを実行し、それにより好意的な感情を得たという流れを意識する。それらは極力、社会の都合、世間の都合、他人の都合に左右されないようにする。とにかくそれが好ましく、自分が主体的に選んだということが重要だ。

 一方で事実に対する言及は続けていく。それは自尊のためではなく、自分が何かを勘違いし、道を踏み外さないためのものだ。事実を事実のまま受け入れるということ自体に問題はない。しかし事実と向き合い続けるには(それが自分に不都合なものであればなおさら)相当な精神的負荷がかかるということは無視できない。だから少しだけ事実を向き合う時間を減らす。安定が必要ならば、事実認識による自傷ではなく安定のための策を講じる。