人生

やっていきましょう

415日目

少しだけ原点を振り返る。

これまで自分は事実と称して、過剰なまでに不都合で生々しい事実を受け入れてきた。だがそれは本来自己の反省を促すための気づきを得るためのものだったはずだ。いつしかその目的を忘れ、どこまでも過剰に自分に不利な情報を磨くようになった。鋭利な刃で自分の胸を突き刺すように、自責の質をどこまでも向上させていた。

記録は自分の人生を前進させ、自分にとってよりよい人生を送るためにつける。元々そういう話だったはずだ。この記録は自殺をしないという意思を明日の自分に伝えるために始めたものだった。洗練された不都合な事実を暴き出し、自分を自殺に追い込ませるためにつけていたわけではない。

いま自分は本当に追い込まれている。このまま自分を痛め続けると本当に死んでしまう。自責をすると死がどこまでも近く感じてくる。だから自責をもうやめようと自分に言い聞かせる。今日はそういう話がしたかった。これ以上自分を殺す必要はない。誰かが言ってくれないなら自分が言う。自分のことを誰よりも案じてくれるのは、他ならぬ自分しかいない。

こうしたことを意識しなければならないことは屈辱に感じる。自分はそれほど孤独で、それほど弱く、脆いということを認めなければならないからだ。人間の尊厳の核にある、自分の足で立つということができないということを世間に公表しているようなものだ。自分はそれほどの人間ではないと思いたがっているが、事実そうであるということを認めなければならない。

だがそれを自責の理由にする必要はない。この事実を自分にどう生かせるかということを考えたい。自分が意識して見るべきなのは事実の良い側面だ。自分にとって好都合な事実に対しては好都合だと評価する必要がある。今まで自分はそれらすべてを自虐によって価値のないものにしてきた。それで残ったものをみて、何も価値がないと嘆いている。自虐ではなく、自分が楽しいと思ったことに対しては楽しいと言う。自分が正しいと思ってしたことには責任の及ぶ範囲で自信を持つ。

茶番だと嘆きたくなるが、今の自分には茶番どころではない。自分に肯定できる要素が何もなければもうじき死ぬという状況だ。その深刻さを踏まえて、事実の肯定的側面に目をむけることの重要さを理解してほしい。無駄な努力かもしれないが、無駄ではないと思いたい。