人生

やっていきましょう

418日目

気づいたことをまとめる。

自分は言葉を通じて身の回りを物事を理解しようとする傾向にある。そのため自らの理解度をインプットした情報を別の言葉の形をもってアウトプットすることができるかどうかで判断している。この情報を言語に置き換えるという特性に最近注目している。自分が物事を認識する際には、必ず言語による説明可能性を考慮にいれている。

自分の躓きの多くはこの言語の変換を過剰に行い過ぎるというところに原因があるのではないかと最近考えるようになった。たとえば皿を洗うとき、自分は「そもそも皿を洗うとはどういうことか」を考え始める。皿に洗剤をつけるという手順は理解するためには「なぜその洗剤なのか」「なぜそのスポンジなのか」ということが分からなければ気分が落ち着かない。また現行の手順が本当に妥当なものであるという理由がわからなければ不安になる。それらを言語化して説明できなければ、自分は皿洗いができないと考えてしまう。

こうした考えが自分の中であまりに自明になりすぎていて、他人も似たような認識を持っているのだと考えていた。だから自分が躓き、他人がてきぱきと動けているのを見ると恐ろしく感じるときがある。彼らは個々の情報同士の言語的な相互関係を完璧に把握しながら、適宜部分を調整することによって効果的な皿洗いを実現可能なものにしているように見える。自分にはそれができない。だから他人が自分よりも遥かに優秀な人間たちであるかのように思ってしまう。

だがそれは少し違っていたようだ。皿洗いは必ずしも「皿洗いとは何か」を考える必要はない。皿洗いを理解するために皿洗いに必要な道具と、皿の部位と、洗剤の量と、必要な水量と、適切な洗い方をわざわざ言語的に関連付けて把握する必要はない。端的に言えば皿洗いは「スポンジに洗剤をつけてちゃちゃっと洗えば終わり」という以上の言語を必要としない。皿洗いに含まれる個々の要点をつなげて理解できているならば、それだけを意識するだけで良いのである。皿洗いがてきぱきできている人間は、そのことだけを考えているにすぎない。目的に沿った思考をしているから余分な情報に翻弄されることがない。だから無理して言語化する必要が無い。

言語は必ずしも物事の関係性の把握に必要なものではない。自分は言葉によって個々の情報を隅々まで言及し尽くさなければなにもできないと思い込んでいるが、それは誰にとっても当てはまるものではない。自分は言葉に置き換えられない認識が極端に苦手なので、言葉に頼っているにすぎない。それがあまりに過剰なので、情報の関係性を言語化することだけに意識が奪われ、頭がオーバーヒートし、眼前の問題にただちに対処することができなくなっている。

ここで重要なことは目標を定め優先順位を設けるということだ。自分は手あたり次第物事を言語化して理解を言葉に置き換えることだけに執心しているが、必ずしもそれが求められていることではない。皿洗いに求められているのは皿洗いの関係性を言語によって把握するということではなく、単純に皿を洗うということだ。ここで皿を洗うことを中心の目的としたとき、今自分が苦心の末に言語化しようとしている問題は本当に重要なことかが分かってくる。目標が皿洗いをすることなら、皿洗いという目標を達成するために必要な情報だけを検討すればよい。状況に応じて求められる言及を自ら判断し、余分な情報を削ぎ落し、シンプルに考えることが重要だ。

言語化に纏わる病的な衝動をその都度抑制していく必要がある。不安を和らげるという要請がいかなる目的よりも常に優越している状態では、言語の暴走は放置されたまま何事も実行に移すことができず、問題を回避し続ける人生を送り続けることになる。1年経って何も変わらなかったのはそういうことだ。行動を稼働するためのものだったはずの記録が、いつしか内面の恐怖と不安を和らげるために吐き出した言葉に埋め尽くされた。

目標のための実践にリソースを回すために、無際限の言及を削ぎ落す。理解を言葉だけではなく、言語外の実践の中から学ぶ姿勢を持つ。当然急に実践の幅と量を増やすということはできない。だからしばらくは共存させる。言及に押しつぶされそうになったときは、目的のための実践を思い出す。精神的にかなり不安定な状態にあるときは、目標など無意味な虚構だという意識に支配されやすくなる。だがそうであるにしろ、無際限の言語化に支配された思考を相対化するには、目的と実践から得た気づきは有用であるように思う。