人生

やっていきましょう

421日目

ゲームの会話文を作っているとき、会話としての違和感をなくすことが常に課題としてあった。ただこの違和感が何であるか自分の中ではよくわかっていなかった。これまで何度か試行錯誤をしてきたが、この違和感の正体については未だはっきりとしていない。そこで今回自分の中の理解を少し整理するために記録にまとめたいと思う。

違和感のある会話とは何か。いま自分が思いつく限りの例を挙げてみる。

まず情報量の多い会話には違和感がある。自分が他人と会話をするときには1つの文章を長く伝えることはせず、ひとつひとつの文章を区切って伝えている。ひとつの文章にはできるだけ1つの内容に留めることを意識する。そうすると会話としての違和感が発生しにくい。

ただし1文の長さがいくら適切だとはいえ、1人の人間が延々と語り続けることには違和感がある。敵キャラが自分の野望を延々と語り続けるシーンを書いたとき、あまりに台詞が多いので読み手の負担になりかねないということに気づいた。これは現実でもそうだ。1つのトピックに執心して延々と語り続けるのは、聞き手としては相当苦しいものがある。相手を巻き込んだ一方的な独白は、双方的な会話とは呼べず違和感がある。

抽象度の高い会話にも違和感がある。例えば「選抜」という言葉は「選ぶこと」と言い換えられるし、「自己正当化」や「詭弁」という言葉は「言い訳」と言い換えられる。読み手が一読しただけで状況が判断できる表現、また会話として日常的に交わされてもなんら不自然ではない表現でなければ違和感は生まれやすい。

 

話の脱線にも違和感がある。そしてこれは作り手として自分が最も気づきにくい違和感だ。大抵の会話というのは前文と後文が互いに関係している必要がある。またそれが全体のテーマに従って一貫している必要がある。「今日は起きたらゲームをやって、飯くって、ネットでブログを書いて寝た」という文章は、方向性は様々でも出来事を時系列順に沿って記録しているという点で一貫性がある。

一方「今日は起きたらゲームをやった。ゲームはダークソウル3で、ボスは闇喰らいのミディールというドラゴンを倒した。ドラゴンといえばモンハンに似ているなと思った。そういえばモンハンをやろうとして無料でダウンロードしたけれど結局大してプレーすることなくアンインストールした。ps4の容量が足りなかったからだ。今一番ps4の要領を食っているのはff15で90GBくらいあったと思うがトロフィーをまだ取っていないので消せないでいる。ダウンロードするのに6時間くらいかかるゲームだったから、今更消すのはもったいない。こういうのをサンクコストというらしい。サンクコストといえば、コンコルド効果の名で知られている。そこに投資をすることが損だと分かっているにもかかわらず、これまでの投資を惜しみ、損切りできない状態のことをいう。まさにそれは自分の人生に他ならない。自分は今まさにこれまでの努力、これまでの失敗に囚われるあまり、外に出ないという選択肢を獲り続けている。これは長期的にみて大損失であることは疑いようがなく、はやいうちに割り切って新しいことをすればリカバーできる問題でありながら、それができていない。できない理由を延々と並べるだけで、自分は何もしようとしない。かつて自分が否定したかったものと同じものになっている。自分にはもはや未来がないと考えてしまっている。自分はなぜ生きているのかを考えている。もはや終わった人生でありながらまだしぶとく生きている。これもサンクコストだろうか、そういえばコンコルド効果はクイズで見たことがあった。同じ問題が何度か出てきたのでいい加減覚えてしまった。クイズは楽しい。昨日も何度かクイズをやった。だが自分の中で苦しさが増す一方だ。そんなことをして何になる?それで自分の人生の失敗を無かったことにできるのか。だがこう考えることもいったい何になるだろう。そんなことをして何になるというのは、何か自分の人生に利するものでなければならないという焦りからきている。それで自分は・・・」

・・・といったような文章には一貫性がない。前後関係は確かにあるが、全体的な統一がなされていない。いわゆる「何がいいたいのか分からない文章」だ。会話ではここまでの分量を与えないにしても、似たような状態に陥ることがある。これを書いている時分には気づかないが、後々読み返してから気づくことがある。「木を見て森を見ず」の状態で思考を放浪させている。それで上記の文章のように思考のループに陥ってしまう。

実際の会話ではこうした脱線に次ぐ脱線が許容されるにしても、ゲームの会話ではそれは認められない。ゲームはある目的に従って進行しなければならず、迂闊に脱線してしまうと適切な分量に留めることができない他、キャラクターの行動原理がほとんど読みづらくなってしまう。そして情報のほとんどが迷いや葛藤に占められることになる(ここでゲームが目的に沿って進まなければならない問題について更に記述しようとしたが、本筋から脱線していることに気づいてやめた)。

 

個性に差がないことにも違和感がある。登場人物の全員が全員、過度な自信家で強靭な肉体を持っているわけではなく、また優れた知性と思考能力があるわけでもなく、ひとそれぞれには優劣がありそれぞれがそれぞれの程度で生きている。だが自分はどうしても自分の視点ですべての登場人物を描いてしまう。だから自分の文章を後々読み返すと、どれも無個性でつまらないと感じてしまう(全員が全員、信念を持たずあれこれ悩んでいる)。また個人の持っている情報量にも差がないので、重要人物からモブのNPCまで知的しぐさで哲学的な問いを発したくてウズウズしているというのが透けて見えて本当に苦しくなる。こうした自分の会話を見ると、自分は本当に自分しか見えていないのだと痛感する。

 

感情がないことに違和感がある。前述に関連するが、自分の創作の登場人物が感情的になるということがほとんど無い。これは自分が洗練された感情表現を持たないということに由来する。自分は事実を淡々と述べることでしか文章を書くことができない。誰か喜びや楽しさ、あるいは誰かの苦しみ、悲しみに寄り添った表現がまったくできない。そうした人間が書く文章は必然と機械的になる。機械的な表現は冷たい印象を与え、物語には熱がこもらない。下手に稚拙な感情表現を行うと、かえって諧謔さが浮き彫りになる。こうした気恥ずかしさもあって今まで言及を避けてきた。

 

最後に、登場人物同士のトピックのすれ違いに違和感が生まれる。同じトピックについての対立や話し合いであれば違和感は生じない。だがそもそも話題にしている問題を共有していない場合にはすれ違いが生まれる。例えば魔王が全世界の支配を目論んでいる一方で、主人公が単なる義侠心で立ち向かってくる場面には違和感がある。魔王のトピックを共有しているのはむしろ勇者に使命を与えた王の側であって、勇者の視点ではない。この違和感をどう収束させるべきか分からず、いつも曖昧な状況で戦いに発展する。あるいは王や魔王の視点は描けても、勇者の義侠心が一体何なのかわからず毎回描写に躓く。

 

適切な情報量、日常会話に基づいた具体的な話し方、脱線しない会話、個性を感じさせる会話、程よい感情、トピックの共有、これらを意識すれば違和感は薄まるだろうと思う。だがそれをどうすれば実現できるかということがまだ分かっていない。適切な情報量や日常的なものに言語を落とし込むことは慣れてきたが、脱線しない会話、個性を感じさせる会話、程よい感情などは意識してもわからなくなる。トピックの共有なども違和感を収束する方法が分からない。

結論が出ない。しばらくこの問題と向き合ってみる。