人生

やっていきましょう

428日目

自分は自由な思索を連想と呼び、目的に対する決定のことを判断と呼んでいる。これらを混合することで「考える」と自分は日ごろ呼んでいるが、それらを明確に切り分けて意識しないことには適切な思考ができないように思う。

連想は浮かんでくるイメージをただぼんやり追っている状態だ。この時自分は何かをしようと思っておらず、思い出され湧いてきた情報を自由に関連付けている。ここには自分に主体性が欠けており、イメージに流されるという受動的な態度でいることに注目したい。この意味で先述の言葉を借りると、自分は考えているというよりは「考えさせられている」状態にある。

判断は目的を設定し、そのためにどうすればいいかを考えるという点で主体的な試みであるといえる。考えているといえばむしろこちらの方だろう。イメージに流されるのではなく、イメージを操作している。有用な情報を取捨選択して問題とは関係ない不要な情報は極力排除する。このように、ある目的に従ってどのような操作ができるか、もしくは妥当かを考えるということが判断であるように思う。

簡単な例を挙げる。たとえば自分は新宿駅にいたとする。この時特にどこかに行きたいわけではないが、そういえば新宿駅には中央線や山手線が通っており、それらを辿っていけばいくつか以前寄った駅がありそうだと思いつく。これは無目的の思索だから連想である。一方で、中野駅に降りたいと考えたとき、中央線を通って降りるのか、バスに乗るか歩いて向かうのかといったことを考えるのは判断である。このとき中野駅という目的に反して奥多摩駅に向かうルートを考えるのは自由な連想であり判断であるとはいえない。

自分が問題にしたいのは判断、すなわち目的達成のための取捨選択に尽きる。いままで自分はこれら2つを雑に混合していたばかりに「自分はこれだけ考えているはずなのに、なぜかまったくうまくいかない」という状況に陥っていた。冒頭にも書いた通り、自分はまったく何も考えていなかった。イメージを連想して自由に関連付けていただけで、意識的に情報を操作していたわけではなかった。

1年かけてこの事実を徐々に認識するに至った。連想は連想という状態であり、判断は判断という別個の操作だった。この初歩的でありながら重大な事実を具に意識する必要がある。自明に浸り過ぎると、どうしてもこの事実がなかったことになる。これが恐ろしい。判断はしていないが連想はしているという問題点を、「考える」という曖昧な言葉によって誤魔化され、覆い隠されてしまう。

自分が問題にすべきことは連想ではなく判断だ。目的を自ら設定し、目的を優先させ、目的に沿った選択をうまく組み立てていく。目的のために何を切り落とし、何を付け合わせられるのかを考える。この認識を欠いていたのでは、自分は永遠にイメージと自由な連想に流され続け、自分を自分で制御できないままだと思う。だから自分に欠けている判断力を身に着ける努力をしたい。

何度でも繰り返すが、連想によって生み出された膨大な情報をどんどん切り捨てていく必要がある。これは何度でも自分に言い聞かせたいことだが、ひとつの問題を解決するためにすべてを把握する必要はまったくない。先述の例で言えば、新宿から中野にいくために東京都全域に敷かれた路線のすべてを把握する必要はない。新宿から中野に行くための道筋「だけ」を頭に入れておけばいい。その程度の情報であれば、わざわざ「新宿駅南口の12番線にあるJR中央線から中野方面の電車に乗って中野駅の8番線で降りる」と言語化するまでもなく、経路に関する最低限の情報だけを記憶しておけばいい。

自分は全体像が完全に把握されなければ部分は理解できないという異常な妄執に襲われている。だが先の例で明らかになったように、それは新宿から中野に向かうために都内全域の路線図を記憶することほどばかげた話だ。事実を言うと、こうした全体像への執心は連想にとってとりわけ都合が良いから必要があると思っているにすぎない。たとえば新宿駅から中野駅という道は単純でつまらないが、新宿駅から山手線に乗って東京駅まで行って、そこから徒歩で皇居を一周して、東京駅の地下にあるラーメンを食べて、気分で大学まで歩いて、図書館に寄ってから中野駅まで行こうとしたが、まだ体力があったので電車に乗らず歩いて中野まで向かった、という道筋は突拍子もなく面白いと感じる。この突拍子の無さを実現するためには、新宿駅から中野駅の道筋に限らず、新宿駅から東京駅の経路、都庁周辺の徒歩経路、東京駅の地下のラーメン屋の情報、東京駅から大学までの経路、大学から中野までの経路、といった情報を把握している必要になってくる。

随分と回りくどいが、要するに抱えている情報の全体量が多ければ多いほど突拍子のない関連付けが可能になり、連想の面白さが無限に広がるということだ。だがそうした連想の暴走は決して自分の確かな判断で行っているわけではないということを確認したい。

特定の問題に取り組むためにあらゆる可能性を考慮してすべての情報を把握する必要はなく、特定の問題を解決するためにまずは最低限必要な情報のみを優先的に採用できていればいい。その際、この問題にはどの範囲までの情報を採用するかという判断が重要だ。この工夫が難しいが、少しずつ慣らしていきたい。