人生

やっていきましょう

433日目

対話文を創作して分かったことだが、自分は感情や情緒を交流場面を描くことが著しく苦手だ。反対に議論や独白、提案や指示といった感情を挟まない機械的な表現は描くことができる。この態度が自分の創作物全体に見られるとき、ひどく無機質で人間味に欠ける印象を与える。

元々自分は情緒交流の描写を見ることが苦手だった。それが何を意味しているのか自分には分からず、もっと重要な問題についてなぜ議論しないのかと疑問に思ってしまう(だからこそ、そのもっと重要な部分のみに焦点を合わせすぎてしまう)。単に好みの問題かもしれないが、あまりに違和感が強いので問題にする必要があると感じている。

情緒交流が自明でない自分にとって、情緒交流を自明とする者が描かれた多くの表現には違和感がある。自分はそれを異邦の存在として眺めている。それらはどれも他人事であって自分のことではない。他人の喜怒哀楽が自分と何の関係があるのかと思ってしまう。自分はそれに共感することはない。そのような表現がなされた、という事実のみを確認する。

だから自分は対話文創作をする上で、情緒の欠落をどのように隠蔽でき得るかという問題に腐心してきた。この試みには相当な苦痛を伴ったが、最近になって少しだけコツを掴んできた。うまく言葉にできないが、文章を簡潔にする、感情のシグナルを明確にする、文語ではなく話し言葉を意識する、といったあたりのことが重要だと感じた。複雑で入り乱れた情報を分割し、極力単純にすることで感情移入の余地が生まれる。

これらの作業はあまり内心で共感できる問題ではないから、哲学的ゾンビを生み出している気分になる。また情緒の交流に問題がある人間が、情緒を表現しようとして逆に違和感を与えないか不安になる。だが一方で奇妙なことに、こうした情緒を演出し続けていたことで情緒の感覚が自明のものになりつつあるということも事実だ。創作に限らず、自分もまた少しだけ感情的な表現を行うことができるようになっている。

対話の創作は他者といかに関わることができるかという仮定を演出する。かつてゲームの制作を始めたばかりの頃は文章量が多く、感情のシグナルが曖昧で、会話文が会話文として成立していないもので占められていた(今でもその痕跡が残っている)。数年の試行錯誤を経てそれらが改善されているのを見ると、自分の成長を感じる。

とはいえあまり悠長なことは言っていられない。これ以上質を追求しないでとにかく完成させることだけを意識しなければならない。現在の進捗は7割程度だ。残りの30%を急いで完成させる。