人生

やっていきましょう

435日目

自殺を仄めかすような人間が適切な人間関係を構築できるわけがない。自殺を匂わせるということは、それだけ相手に精神的な負担をかけることだからだ。このように考え自分は周りの人間に極力自殺を仄めかすようなことはほとんどしてこなかった。そうして辛うじて対外的に自分が健全であるという体を維持できている。だが自分の中には確実に希死念慮というものが存在する。それは生存の意欲と同時に存在し、拮抗している。そこには無理が働いている。大抵の場合は表に出てくることはない。だがふとしたことで、自分の心が既に死んでいるということ、自分が今にも死のうとしているということが思い出される。

自分にはなにも報われることがないと思うとき、この感覚が沸いてくる。自殺をしないと決意して以来孤独な戦いを1年続けてきた。何が報われたかといえば、何もなかった。相変わらず精神は不安定なままで、自分の素朴な感情と向き合うこともできていない。これまでの試みはすべてマイナスをゼロにする作業で、プラスに転じたことはあまりない。短期的に見ればプラスなことも、長期的に見ればゼロかマイナスに収斂する。

やはり自分の決心は無駄な足掻きだったのか、あのままストレスの圧力に押しつぶされて死ねばよかったのか。そう考えることがある。あのとき死ななかったからこそこの1年と数か月を経験できたと考えられるにせよ、そこで今までの自分では思いつかなかった建設的な考えがいくつか自分に良い影響を与えたにせよ、それが自殺以上に価値のあるものだったと断言できる自信がない。無論そうだと信じたいが、何も変わらないという事実を見せつけられる度に自分はそう思えなくなる。

今日記録したことを事実から目を背けるための言い訳にしたくない。自分の中でまだやりきれない思いがあり、死ぬわけにはいかない。だがそれも危うくなっているということを今回は確認したかった。突発的にそれが分かってしまった。自分は気を抜いたら死んでしまう。

生きたいとも死にたいとも断言できないが、自分は今は無理をして生きようとしている。それは意欲というよりは義務に近いもので、自らを律することでようやく生命維持ができている状態だが、ともかく希薄な生存願望を生かす道を選ぶことにしている。その道は自分が報われていないという事実を嫌というほど見せつけるが、少なくとも今日は踏みとどまることができた。明日のことは分からないが、おそらく生きているだろうと思う。