人生

やっていきましょう

437日目

虚無的に生きていると、事物に纏わり付いている意味の繋がりが剥がれ落ち、何ものも関連づけられないまま互いに異質なものとして併存しているという感覚に襲われる。その違和感は自己に対しても働きかけ、自分が何かを感じるということ自体、自分のことのようには思えなくなっている。

最近この誤魔化し方が上達した。本心は虚無に落ちていながら、敢えて意味に囚われその事実を忘却することが自然とできるようになっている。ものの自明を奪われていながら、自明に没入することができる。こうした小狡さをかつて自明の感覚を失った多くの人間がしてきたように、自分もまた都合良く使い分けている。

誤魔化して生きる方がQOLが上昇するという単純な事実に基づいて、現実を適度に見ないようにしている。明らかにその試みは成功している。人々がなぜ自明性の喪失に基づくあの緊急の感覚に陥らないかというと、現実を見ることにそれほど頓着がないからだ。今思えばそれが世の中には適応的な振る舞いだった。だから変なプライドなど持たずその型を愚直に模倣すれば、安定するのは自然のことかもしれない。

自明の感覚に埋没したくないとは思うけれど、自分は生きるという選択をした以上、自明に生きるということ(すなわち理解不能、操作不能な問題に対しては目を瞑り、自分の身近な偏見に基づいて世界と関わっていくこと、またそうした態度でいることを忘却すること)を適度に取り入れた方が良いと思う。不都合な事実に常に向き合っていると精神が消耗する。自明に生きるということは認識の解像度を粗くする代わりに体力を温存できるという利点があるように思う。