人生

やっていきましょう

442日目

自己憐憫は酔いのようなもので、事実よりも心の救済を求めているという点で誤認である。

以前までは浴びるように憐憫に浸っていたが、最近では事実の確認が占めるようになっている。自分の解釈が貧相になったともいえる。

事実は確認されるばかりで何かに利用されることがない。利用したいと思う意思が存在しないからだ。意思や価値観といったものがほとんど湧いてこない。湧いてきたとしても一時的なものだ。それらは自分に何ら影響を与えない。

憐憫という動機さえあれば、自分はまだ救われていただろうと思う。もはや自分には憐憫の必要すらなく、事実を確認するという作業に没頭する他ない。記録を毎日つける。具体的な方向性を示すわけでもなく、その日の思考を記録する。そこに意味はなく、ほとんど得られるものもない。

感覚が麻痺している。安心がどこにもなく、方向が分からず、絶望の渦中にありながら、焦りがなくなり、希死念慮がなくなり、自分の中に僅かに残っていた生の実感もなくなった。鮮明な事実だけが目の前にあり、それ以外の虚構には本心から没入することができない。主観的な満足は死に、そこには客観的な事実だけがある(少なくとも自分はそう思い込んでいる)。

内的な混乱と虚無感の中で最も鮮明な方向性を示すものが希死念慮の欲求であるから、そこに自分は救済をみることができたはずだった。だが自分は自分の価値観を救い出すために死ぬのではなく、自分の生命を生かすために自らの価値観を殺した。価値観の不在は虚無へと繋がった。あれから1年は経つが、未だに価値に基づく安心が得られていない。

生きていさえすればそれでいいと簡単に言う人間がいる。それはおそらく生きていることに希望を持った人間の世界観では救済されているように映るということだろうと思う。だが自分は未だに生きていて良かったと自信を持って言うことができない。そういう選択をしたというだけだ。

この選択を正当化できるいかなる憐憫も存在しない。自分は誤魔化して生きている。これ以上の言及はできない。