人生

やっていきましょう

443日目

情報はどんどん自発的に吸収すればよく、不明な点は明らかにし、誤解はその都度修正していけばいい。判断の主体は自己にある。だが自分はそれをしていない。

自我の未発達を理由に問題からの回避行動を取ろうとしている。自分にできることとできないことがあるにもかかわらず、両者を混同し、いずれの選択も近いうちには不可能にぶつかるということ、その都度心に傷を負うことをもって、自分には無理だと決めつける。

散々自明に対する疑いを表明しておきながら、なぜかここでは自明に従っている。都合の良い部分にだけ疑いの目を向けるくらいなら、いっそ自明に埋没してしまうか、都合の悪い自明を改善したほうがいい。

主体的な方面で自明に埋没することは不可能だろう。率直に言えば、したくてもできない状態にある。修正が可能だと思うのは受動的な回避の自明であり、こちらを積極的に変えていく方がいい。

自分では気づきにくいが、いかなる時も回避的な判断が優先されている。リスクが少しでも感じられる場合「戦ってでも勝ち取れ」ではなく「今すぐ逃げろ」という考えに支配される。

明らかに地に足のついた思考ではない。恐怖と不安によってリスクを過剰に見積りすぎている。これが現実的な評価であれば、当然逃げるという選択が必要になる場合もある。だが自分の場合はそうではない。例えそれがリスクを呑んでも十分挑む価値のある機会であっても、自分は有無を言わさず逃げることだけを考える。

重要なことは冒頭に述べた通りだ。情報を取り入れる。安定が得られるまで自分を修正し続ける。選択の判断を他人ではなく自分に委ねる。他人がいつも助けてくれるとは思わないこと。

不可能に対していくつかの答えがある。その答えは決して自明ではないが、人類がこれまでに蓄積してきた情報という形で残されている。それらは玉石混淆だが、有用なものについては自分はこれらを参照し、一部を自分のものにすることができる。

取り組む前から無理だと判断してはならない。自分の回避の動機となる多くの判断は、取り組む前に抱いた不安に基づいている。不安は無視せず受け止め、しかし現実的な判断に基づいて評価していきたい。そのために記録という機会がある。

情報を取り入れ、試行錯誤の材料にし、過程と結果に記録をつける。この態度を自分のものとしたい。自分には相当難しいことだが、意識的に反復していくことでいつか自分のものになると期待している。