人生

やっていきましょう

459日目

「自分がなぜ自殺しないのか」という問いを前にしては、いかなる楽観も意味をなさない。自分は死なない理由を無理やりこじつけることによって生きているが、生の虚構に没入しようとすればするほど自分を誤魔化しているようで惨めになる。

自分の本心は既に死んでいるが、対外的には無理やり抑え込んでいる。見かけ上は健全を装う。まだ物事への関心が生きている振りをする。感情を偽る。しかしそれももう限界だと思う。自分の中には余裕が残されていない。

自分は今日もまた自殺はしないと宣言した。このことによって得られる満足はほとんどない。死への恐怖、未だに可能性を捨てきれない思い、他人への迷惑、自分が負け続けることへの悔しさ、様々なことを理由に生きることをしぶしぶ認めている。

自分は誇りを対価に生を獲得した。自殺によって守られる尊厳というフィクションを捨て、惨めさとともに生きる選択をした。その結果何にも関心を持てず、何も満足できず、漠然とした不安が延々と続く日々を送ることになる。

そこまでして生きる意味はあるのかと思うが、率直に言えば惨めさというものの確からしさが、不明瞭な自尊感情よりも信頼できるということだろう。そこに安心がないわけではない。