人生

やっていきましょう

464日目

情報を正しく理解し、正しく伝えるということがとても難しいと感じる。情報は発信者の意図通りには解釈されるとは限らず、多くは受け手の視点に左右されることとなる。こうした解釈の混沌状態に整合性を持たせるために、多くの場面ではある程度論理というものが意識されている。論理によって人は人とある程度近い範囲で同じ視点を共有することができ、それにより情報伝達を円滑に行うことが可能となっている。しかしそうした能力を培うには相当の鍛錬が必要であるように感じる。

自分は情報を正しく理解し、正しく伝えるために情報の厳密さを意識してきた。対話において不明瞭な点があればその都度確認し、自分が発信しようとする言葉には度重なる推敲を必要とした。そのために自分はできるだけ論理的であるよう努め、無理をしてでも人から見て納得できる形にしなければならないと考えていた。

しかしこの努力に見合う結果はあまり得られていない。伝わらない相手には伝わらず、曲解されることも多い。そこで気づいたのは、そもそも情報を正しく理解し、正しく伝達することは本当に最優先事項なのかということだ。情報の伝達においては必ずしも常に厳密さや論理が優先されるわけではない。むしろ前提となる文脈の共有、こちらの方が重要ではないか。

文脈というのは情報の発信者が前提としている言外の意図である。大抵文脈というのは省略される傾向にあり、常に宣言されるわけではない。我々はこうした理念と主義を持ち、それに基づいて行動しているなどとは言わない。言わないがそうした暗黙の意図はうっすらと存在する。情報の発信者ですらそのことに気づいていないかもしれないが、文脈を正しく理解しないことには、相手との意思疎通は困難であるように思う。

自分は自分の理念や信念を持っていたとしても、それが正しい情報の理解に基づいていないのであれば修正すべきだと考えている。これは常々意図はしないが自分の言葉の根底に流れる文脈だろうと思う。だが信念以上に情報の正しい理解を優先するというのはひとつの見方でしかない。世の中には情報の厳密さ以上に信念を優先させる見方も多く存在する。自分はそうした相手に向かって情報の厳密さを暗黙裡に強いて、それに応えてくれるだろうと期待している。だが相手もまた、背景がよくわからない機械的な屁理屈以上に、自らの理念と価値観を共有してくれることを期待しているかもしれない。この両者が衝突した場合、話が通じないということが起こる。

文脈の共有は難しい。特に自分の見方に疑いの無い相手にはほとんど不可能だ。その不可能に対して自分は今まで情報の厳密さという価値観を押し付けることで合意を得ようとしてきたが、その情報の厳密さは自分では正しいと思っていても、自らの文脈に基づいて恣意的に選ばれたものである可能性が非常に高い。そのため相手の前提からすれば的外れに見え、余計に断絶を広げることになるかもしれない。

もし他人との意思疎通を図りたいのであれば、無理をして万人に文脈の共有を試みるよりも文脈を共有できる仲間とだけ交流すればいい。そうすれば話は通じ、自分のストレスは半減する。事実そのようにして多くの人間は社会を形成している。

だが自分はその安易な選択に潜む危うさを無視することができない。文脈を自明のものとした瞬間、所属する共同体によって強化された文脈がすべてとなり、外側と内側の文脈の差異に区別がつかなくなる。正直に言って、自分がそうならないと断言することはできない。

だがそれでも、自分は自分の前提とする文脈を共有できる人間とは関わるべきだろう。今までそれを意識的に避けてきたが、その結果自分は自明を失い、底無しの懐疑に陥ることになった。自分が弱いために、多くの人間の多様な文脈に対処することができず、自分が本来何を考え、どういう文脈を持っていたかということを忘れてしまった。自分が何を前提としているのかを確認するという意味でも、いまはある程度は近い人間と意見交換をする必要があるように感じる。とはいえそれもある程度のことだ。没入すべきでない。