人生

やっていきましょう

466日目

思考や想像といった類のものは基本的に何ものにも束縛される必要はなく、自分の願望と狙いさえあればそのまま自由に表現される。自分もまたこのようにして様々なアイデアが生まれてくる。しかし自分はそのすべてを黒塗りにしようとしている。すべての価値を否定しようとしている。

ここには様々な思いがある。ある時点まで自分は確かに自分を持ち懸命にそれを守ろうとしてきた。しかし外部からの要請、忖度、自分の弱さ、認知の歪みなどから、それらを捨て去らなければならなかった。自分の人生の大半はこの支配的な他者都合と矮小な自分との折り合いによってかろうじて生きていた価値を守ろうとする過程だった。しかし折り合いをつけようと思えば思うほど、他者が介入した歪んだものを自分の価値観と呼ぶことの矛盾に耐えられなくなった。

象徴的な例だが、大学のサークルに属したとき、それは明らかに自分の意思で入ったはずなのだが、気がつけば自分のためではなくサークルが掲げている理念を生かすために活動していた。自分の価値観が集団の価値にすり替わり、しかし自分の価値観に馴染む部分も確かにあるために、他者都合の価値を無理やり自分都合の価値観であると思い込もうとした。

また自分は絵を描きたかった。それは自分の中にあった明らかな願望ではあったが、気がついたら自分は絵を描くことを要請する外部の都合に応じて絵を描きたいと言わされているだけで、自分が絵を描きたいという思いがもうほとんどないことがわかった。

いま自分を形成しているのは、こうした不安定な価値観だ。この価値観を守ろうとする限り、自分の価値観にパラサイトする支配的な他者という屈辱を自分から無くすことはできない。だからすべての膿を自分から取り除く必要があった。その結果自分の価値観もまた切断され、自分の拠り所となるはずだったものの一切を破壊しようとしている。

2年前の挫折とは、他者都合を自分の中に取り込むことへの挫折である。自分が無いことを強いた社会が自分を持つことを要請したとき、今までのすべての努力が無意味だったと悟った。

自分の価値観は外部に支配されている。これ以上惨めな思いをしないために自分は自らの精神を自殺に追いやった。ようやく心は自由になったが、何ものも自分のものになれないという代償を得た。だから今はこの世への執着がほとんどない。いずれも他人事のように感じる。