人生

やっていきましょう

469日目

関心を持つことができないと宣言するとき、自分は「関心」なる存在を自明の前提としている。しかしそもそも関心とは何か自分でもよく分かっていない。分からないまま、それが無いものと結論づけている。

関心は自分の場合、ほとんど「興味がある」ことと同義に扱っている。興味があるとはどういうことかを定義するのは難しい。辞書を見てみると「ある対象に対して特別の関心・注意を向ける心的傾向」とある。それが無いということは、ある対象に対して特別の関心・注意を向けることができない、ということだ。

特別とはどういう意味か。辞書によれば「他と特に区別されているさま。一般と特に異なっているさま」とある。注目すべき点は「区別」と「一般」という言葉である。区別は「あるものと他のものとが違っていると判断して分けること」とあり、一般は「ありふれていること。あたりまえ。普通」とある。

これらをまとめると、関心が持てないというのはありふれたものの中からある対象が特に異なっていると判断して切り分け、ことさらの注意を向けることができない状態であると言える。

さてこれは当然あるはずのものだろうか。厳密に言えばそうであるとは言えないだろうが、現時点ではその心理傾向を多くの人間が備え、自分はその傾向を取り戻したいと考えているということは確かに言える。なぜならそのような傾向に率直になることで自分は生存という異常事態に適応することができるからだ。

これは関心がはじめから自明であり今も尚自明である多くの人間が共有しているあの無謬の確信とは全く異なるものである。自らの関心に信頼を抱くことの異常性を認めた上で、その非自明な状態を自明なものに転覆することを企てるということである。他人がどうということはあまり意識せず、自分の要請に従い解決を試みる必要がある。

関心を持つことができない状態というのは、そうした心理傾向が何らかの要因によって阻害されていると考えるべきだろう。阻害の要因は上記の通り、ありふれたものの中からある対象を切り分けることができない要因である。ひとつは自分が、自生する自らの価値観に不都合な事実を進んで取り入れようとする心理傾向にあることだろう。こうした自虐的な性格が自らの判断軸を否定することに繋がっている。選別の基準となるべき軸を持たないために、ある対象は一方の評価軸では高く評価され、別の評価軸では低く評価され得るという相対主義の過剰に陥り、いかなる価値も無意味であると考えてしまうようだ(あるいはこうした自己否定の価値観が自分特有の判断基準だと言えるのかもしれないが)。

関心を取り戻すにはどうすればいいか。前述の通り、ありふれたものの中からある対象が特に異なっていると判断して切り分け、ことさらの注意を向けることができる状態に戻せば良い。そのためには自らの判断基準を持ち、その価値を優先的に待遇することが必要だ。

その判断基準は、初めのうちは自明である必要がない。例えば映画や漫画の中のあるジャンルを実験的に評価軸として据え置いても良い。そのとき自らの主観がその価値を優先的に待遇したくなるかどうかを観察し、そうであれば近くに置き、そうでなければ退けるという方法で選抜を行う。初めから個別具体的なものではなく、広い枠組みから絞っていくと良いだろう。

この特定作業を明日にでも行いたい。困難ではあると思うが、意外とそうではないかもしれない。自分が直視しようとしないだけで、関心の種はいくらでもあるように思う。