人生

やっていきましょう

470日目

正確に言えば関心自体は存在するものの、関心を否定し尽くす動機があまりに強いので、関心が根を張りにくいという問題がある。そうでなければ自然と関心は生まれてくるはずだと思う。

関心をすべて覆うほどに強すぎる否定の動機とは、自我を歪めてでも他者に隷属しなければならないという絶対服従である。自分の価値観は他者の身勝手に蹂躙され続けた。そこで自分は抗おうとするのではなく、自分の価値観が間違っていることを認め続けた。物事の捉え方など他者都合でいくらでも解釈できるため、そこから取り出せる自分の価値観を否定する思いつく限りの論拠をもとに、自分勝手な解釈を否定した。そのようにして生きてきたことが、自分からいかなる興味をも剥奪した。

とはいえ今日の試みは自己否定の詳細を明らかにすることではない。何に興味が抱きやすいかということを探ることが目的だ。

実際のところ、少し考えただけで気分が悪くなった。自分はスマブラとApexにハマっていると認めた瞬間、それらが時間の浪費であり何ら貢献を資することがないという事実が見えてくる。絵を描くことは楽しいが、やはり自分の劣等感を強く刺激し現実逃避の口実にしているため無意味だと思っている。自分は回転寿司やラーメン、ピザやチャーハン、マクドナルドが好きだが、そのことが食に対する想像力の貧困、限界を自分に突きつける。自分はSFが好きだがガジェットにはそれほど興味がなく科学知識をほとんど持たないという事実から、自分はSF好きを称する資格があるのかと自らの興味を疑わせる。自分は数学が好きだったが、今さら数学をやってどうなるのか。ハイキングや山登り、サッカーや野球は面白そうだが、今までインドアな人間がアウトドアに手を出したことで家族に笑われた経験があり、一気に萎えてしまった。

列挙したことは自分が関心を認めようとすると必ず連想される障壁である。どこまでも他者都合だ。面白そうだと思うなら今すぐ実行すべきなのだが、他者に蹂躙される恐怖から何もすることができない。そんな恐怖から他の人の関心は絶対馬鹿にすまいと思っているが、その他人が何者にも阻まれることなく伸び伸びと自分に従って生きるのを見ると、自分が本当に惨めになり死にたくなる。

結局は自分の関心、あるいは自分そのものを守るために他者と差し違えてでも争えるかという話になる。自分は他者との闘争を否定したことで、自らの利益を譲ってでも不和を回避しようと努めた。だがそうなればなるほど、他者に漬け込まれる隙を与える。それは悪意に限らず善意にも及ぶ。

自分に関心が芽生えたとき、それは他者の身勝手な評価以上に重要であると思わなければならない。場合によっては対立することも覚悟すべきだ。確かに相手の意見には一定の理が通っている場合もある。しかし理屈が通るからといって必ずしもすべてに隷従する必要はない。その選択の責任を自ら背負える限り、従うべき理屈は自分で選ぶことができる。

自分の関心を言及することは吐き気がする。しかしそれでも自分の土台を固めるには避けては通れないことだと思う。今後も自分の関心については触れていく。だがそれには相当な苦痛が伴うだろう。