人生

やっていきましょう

473日目

物事に受け身であるとき、自分はそのことに自覚を持っていない。あのとき受け身だったと気がつくのはずっと後になってからで、状況に対して受け身であることを瞬時に気がつくのは難しい。

受け身の過剰という問題が、自分の場合には確かに存在する。多かれ少なかれ人は受け身にならざるを得ないが、そのすべてが受け身である必要はない。自分は自らの人生に関わる様々な出来事に主体的に関与することができる。だが自分はいつまで経っても自分から動こうとはしない。痛みを恐れ、積極的な関与を放棄している。

この事実が、受け身の渦中にあってはまったく自覚されないという点が恐ろしい。自分にとって純粋に生きるということは、受け身であることとほとんど同義である。つまり受け身という状態そのものが自明であるというわけだ。

今日という1日はそのほとんどが受け身だった。自分が主体的にやったと思っていることでさえ明確な意思はなく、場当たり的な「とりあえず」で始めたことだ。そうした受け身の状態が朝から曖昧に始まり、今に至るまで続いた。

だから今日は何をしたと言及することができない。とにかく何もしなかった。そのことに自分は失望しているが、実際のところ他に方法を思いつかなかった。受け身をどう克服するかという明確な指針を自分は未だ持つことができていない。自分を積極的な関与に駆り立てたあの「危機感」はどこかへ消えた。今は自分の精神の安定以外を考えられなくなっている。その安定は何も荒波を立てないでようやくわずかに得られるものだ。

不思議なことだが、自分は次第に考えることをやめている。自分は否定したがっているが、自分の弱さ、自分の欠点などと向き合うことが面倒になっている。それはかつて自分が否定したがっていた人間像だった。自分の弱さから目を逸らしたくはなかった。だが現にそうなりつつある。少しずつだが、妥協に妥協を重ねて後退している。

確かに自分の場合、意識の範疇では考えることをやめてはいない。だが実際のところ、意識の外ではもう既に考えることをやめている。自分は現実から目を逸らし、自分の弱さに対してもっともらしい理由をつけて正当化していることに「自覚を持っていない」。その事実は、この記録をつけないことには決して自覚されることのなかったことだ。

無自覚な惰性が1日の大半を占めているということは、自分にとってとりわけ不都合だと感じる。自分は自殺を放棄し人生を立て直すことを望んだのであり、惰性の中で余生を送ることを目的としたわけではない。自分が惰性の中に身を置くならば、どうして自分が生きているのか分からなくなる。

だがそもそもなぜ自分が自分の人生を送らなければならないのかも分かっていない。自殺を放棄する理由、受け身を否定する確かな理由などどこにもない。ただ漠然と自分がこれまで味わってきた過去の悔しさや不幸を清算したいから、そう言い聞かせているにすぎないのではないか。

自分がどちらを望んでいるかを考えたとき、やはりどこかで惰性は嫌だと思っている。だから自分は惰性に抗うことを選ぶ。それが無意味かどうかは分からないが、少なくとも自分はそれを求めている。

だからとにかく明日からは無意識の惰性を強く意識する。そして意識的に行動する時間を増やす。主体性を確立し、自分の意思で行動する。