人生

やっていきましょう

493日目

自分が何を望んでいるかを考えると、とにかく集団に対して適応的でなければならないという強迫から解放されたいということと、最低限自分の意思に依って立っているという自信(主体性)が欲しいということだ。この2点について焦点を絞って今日は考える。

いずれも集団から距離を取ることが重要になる。集団に適応的でならなければならないと思うのは、自分が自立して生きていく力がないためである。そのため自分の生殺与奪の権を他者に与えることになり、過剰な適応を自らに強いることになっている。そのことが結果として自分の自信を喪失させ、自分はますます他人の都合のために生きるようになっていく。

集団から距離を取るにはどうすればいいか。結論から言えば集団からいつでも逃げられるようにしておくことと、自分の実力を不当に貶めないということだ。

自分はこれまでプランBを持つことの重要性を何度も指摘してきた。自分は常に、集団に対して適応的でなければ自分はいつか殺されるのではないかという不安を抱えてきたが、何も怯えることだけがすべてではない。その集団に対して自分が力を持っていれば組織を改造すればいいだけのことであり、そうでなくとも自分の避難場所があるなら、その集団を離れてそこに逃げ込めばいい。

要するに不測の事態に自分が何をすればいいかが分かっていないことが問題であり、分かっていれば、あとはテンプレートに従って行動を組めばいいだけで、それほど強迫を抱く必要はなくなる。強迫は無計画から生じる不安に由来する。

また自分ができることについては確かにできるという評価を下すことも重要だ。過剰な謙遜ゆえに自分は何もできない人間を装っているが、自分は二本足で立つことができ、息をすることができ、日本語を理解し、文字を書くことができ、風呂に入り歯を磨くことができる。

これらについてなにもしてないに等しいという見方は正しい。だがそれはあまりにそれらが容易であるためにできて当然だというバイアスがかかっているためである。単純にできるかできないかという基準のみに従えば少なくともできるとは言うことができる。このできるというものを不当に歪曲するべきではない。できないことと、あまりできないことを混合してはならない。

こうして考えていくと大なり小なり自分の可能範囲というものが見えてくる。この範囲内に自分の自信を根付かせる。範囲に基づいて、自分は今この挑戦ができるか、このことは断念するかという判断がついてくる。それが自分の実力に対する自信に繋がってくる。このことを忘れてはならない。

ところでこれらの言及は精神論に終始しており、打開案としては不十分である。自分にはまだ自分を変えるほどの具体的な施策を持つことができていない。抽象的な精神論に逃げるのは自分の弱さだ。とはいえ、これが今の自分にできる限界なのだろう。少しずつ思考に具体性を持たせていきたい。