人生

やっていきましょう

498日目

開発データの中に3.4年前のセリフがいくつか残されていた。多くの点で問題を抱えていたが、最も顕著だったものはコミュニケーションの粗さだった。婉曲的な言い方をすれば、セリフに血が通っていなかった。セリフひとつでその人間の背景を感じさせる要素がまるでない。

自分はそこまで本格的なドラマを描いているわけではないし、基本的に雑な描き方をしているので、演出に目くじらを立てているわけではないのだが、それにしても数年前のセリフは見るに堪えないものだった。名前と容姿を変えただけで、いずれも「自分ならこう言うだろう」という同一の目線から描かれている。以前も指摘したが、自分のゲームではキャラクター間の自他の境界がはっきりしていない。

とりわけそのことで悩まされたのは父と子の場面だ。自分は父の目線というものを持ててはいなかった。父という役割の前に、自分という視点が先行していた。子はそれでも良かった。主人公だからだ。しかしそうでない役割において、主人公に対する異質を演出することが自分にはできていなかった。

自分が数年前に描いていた父親はほとんど子供だった。父親というよりはむしろ友達のような感じで、子を叱る、子を導くということをしなかった。基本的に子を放任しており、子が勇者として立ち上がる動機を直接与えなかった。意図したわけではないが、偶然にも子である主人公もまた自分が冒険をする理由が分かっていないようだった。父の知りあいのおじさんが冒険の意義を舞台に向けて「代わりに」答えてやり、主人公が「まあ、そういうことでいい」というような空返事をしていた。主人公が「勇者」のロールを理解しないまま、名前だけ勇者を冠するという状況が終盤まで続いた。だから終始気持ち悪かった。

この演出は必ずしも間違っているとは言えない。それこそ自分の生きてきた実情に沿った率直な見方であるだろうからだ(意図しなかったが、興味深いことにこれらの関係性は「威厳のない父」「うるさい母」「無気力な子」という自らの家庭環境の直接的な反映に近い構造になっている)。問題はそれぞれのロールの差に自覚的になれていなかったということだ。自分という学級の中で、生徒が王様役、姫役、勇者役、魔王役をやるといったような感じで、どれも幼い自分が人形で遊ぶときの目線だ。それぞれのロールはプロットをなぞるだけで独立していない。

この構造をそのままゲームにしてもよかっただろう。しかしこのままでは主人公がなぜ勇者となって冒険をするのかという動機が明確に定めることができない。なんとなく気分で勇者をやって、それこそゲーム感覚で魔王を倒すというだけでしかない。だからどれだけ大きな台詞を吐いても底の浅い茶番に聞こえ、うすら寒く感じる。そういう不十分な演出しかできない自分を誤魔化すためにこれはギャグだからと弁護を図るが、自己保身に走った笑いには面白さがあまりない。

動機を持てない主人公が動機を獲得するにはどうすればいいか。この答えは未だに出すことができていない。なぜなら自分もまた動機を持てない人間の一人であり、どうすれば確固とした強い動機を獲得できるかが分からないからだ。

雑な区切りだが、動機には2つの種類があるように思う。ひとつはこうしたい、こうなりたいという憧れ、もうひとつはこのままではいけない、なんとかしなければならないという危機感である。自分の人生を振り返った時、願望の動機というものはほとんどなく、危機感によって得た動機に満ち溢れていた。受験に現役で落ちたこともそうだし、2年前に感じたストレスの極限状態もまた自分に大きな動機を与えた。

こうしたことを知ってか知らずか、自分のゲームは数年前に強い危機感に突き動かされて主人公が勇者のロールを担わされるというプロットを描いていた。今更変えるのも面倒なので、その路線を継承することにした。だが当時はそれでも危機感の自覚が本人にまるでないという最悪の状況であったので、今回は主人公が多少自覚的であるように修正するつもりでいる。