人生

やっていきましょう

500日目

生きている限り何らかの形で生の共犯者にならなければならない。このため自分が希死念慮を抱いていること、精神的に苦しんでいることを公表することは、自分と関わる人間にとって大変不都合であるように思う。

早い話が、自分たちが楽しんでいるところに暗い話を持ち込まれるのは興ざめであるということだ。自分はこうした生者たちからは歓迎されていないだろうなと感じながらも、生者の顔色を窺いながらどうにか適応しようとしている。

生きることに意識が向いている人間からすれば、死に意識が向いている人間に煩わされたくないというのが本心だろう。直接「死んでほしい」とは思わないが、「視界から消えてほしい」という感覚は何となく伝わってくる。自分だって、周りとゲームで楽しんでいるところに突然「死にたい」と言う人間が現れたら、少しは面倒だと思うかもしれない。だからこの感覚が不当だとは思わない。

また社会的な責任を果たすうえで、バイタリティを有することは自明の要求である。希死念慮を有し精神が不安定であるということは、本人の労働価値を下げる要因でしかない。働く上でこのような欠点を有しているのであれば、本人に対する期待は大いに下がってくる。このことからも精神的弱者は生者に歓迎されていないことが分かる。

こうした自覚を取り戻してからは人前で不安について語ることがほとんど無くなったのだが、自分の中の不安は確かに残り続けている。結局自分は生きることにポジティブであれという社会の圧にしぶしぶ迎合し、自分が苦しんでいるという事実を無かったことにして生きようとする。

何が問題かといえば、同じ生の共犯者となるためには、死に近い者の側が生者に対して無理をしなければならないという点に尽きる。そのまま生きようと考えられている人間が思う以上に、死に近い人間が生きようとすることは難しい。生の流れより死の流れに沿って生きているからだ。その場合、生きるということは流れに逆らって進むことを意味する。

自由に放任するならば、生きたい者は生きたいようにさせ、死にたい者はそのまま死なすということが適解となる。しかし人間には生きようとする本能が備わっており、簡単に死ぬという判断を下すことはできない。それに、自殺を食いとどめるという方向に社会は動いている。そのため死に近い人間は、その死の近さを抱えながら、生き続けなければならなくなっている。

この事実を前にして、自分は果たして本当に生きるべきなのかと考えてしまう。自分はいま無理をしてこの世に留まり続けている。自分が生者として当然備わるべき前向きさを有していないことに、ばつの悪さを感じる。こうした疎外感のなかで、生の共犯者を演じなければならないことが心苦しい。

今はまだ死ぬつもりはない。自分が死に瀕したとき、自分の心と向き合って出した答えが自殺をしないというものだったからだ。その決意の妥当性には揺らぎがあるとしても、当時の選択には概ね納得している。

だがはたして、自分はこの疎外感にいつまで耐えることができるのか。いつまで自分は自殺をせずに抗い続けるのか。先のことはまだ分からないが、少なくとも今の自分は自殺を踏みとどまり続けるだろう。今はまだ死ぬべき時ではない。