人生

やっていきましょう

512日目

以前ある知りあいが、相手の不幸話を聞くと大したことのないように聞こえてしまうということを話してくれた。自分の不幸と比べるとどうしても軽く見えてしまう、自分はそんなダメな人間なのだということを語っていた。

この言葉は自分にもよくあてはまった。自分の不幸は絶望の渦中にあるように見え、他人の不幸は些細なことのように感じる。自分の絶望とは、これまで述べてきたようにある種の自明さが失われて価値の宙づり状態になっていることではあるが、その絶望は、少なくとも自分にとっては戦争による大量破壊や、飢餓、環境問題、人間の死、不慮の事故、失恋といった外野の「トピック」以上に重く苦しいものだ。

こう言うと自分はひどく自己愛的で、エゴイスティックなように聞こえる。しかし実際はそこまで能動的な欲求に突き動かされているわけではない。事実は、自らの不幸に対処するだけで精一杯であり、また自分に直接関わりの無い問題が見えていないということだ。自分の内面に漂う不安や恐怖といった観念が、そのまま自分の世界観全体に覆い被されている。そのために、他者の問題を軽く見積もり、自分の問題を重く見積もる。おそらくこの知り合いもそうだったのだろう。

よく「つらいのは自分だけではない、他の人もそれぞれ苦しんでいる」という言葉を耳にする。これはおそらく事実に近いだろう。世の中には多様な不幸がある。程度の差こそあれ、それぞれがそれぞれの不幸と向き合いどうにか対処しようとしている。これこそ何の味気もない事実だ。

当然このことは彼にとって何の慰みにもなり得ない。つまり、この事実はその人にとっての主観的な世界を何ら救うものではない。この不幸の相対化とは、結局自分の悲観が取るに足らないものであるということを潔く認めよということを迫るものでしかない。

だがそれでも、とくに不幸の渦中にある自分のような人間が生きるためには、敢えてその事実を正面から受け入れることが重要だと思う。自分が悲劇に酔っているうちは、自分のこと以外何も見えなくなる。そのことは他者との関係のうちに生きていく上では障害になる。

自分が現実の中で生き、そこで戦っていこうとするならば、自分の悲観を制御できるほどの強さを持たなければならない。悲観の暴走が野放しにされている状態というのは、適切な判断を失い、建設的な思考を妨げる。

実際、救われなければならないのは認知や判断力でなく心の方ではあるということは分かっている。だが、心の救済を求めるあまり、現実的に物事を考えられなくなることだけは避けなければならない。自分は悲観の渦に飲まれるあまり、不幸の理由をすべて他人のせいにしたり、妬ましく恨みを持って生きたくはない。少なくとも自分が世の中に適応する上で自ら合意をもって改善できると思える部分がある限り、その改善に必要な認知を適切な状態に留めておく必要があると考えている。自分は地に足のついた思考をすると決意したのだ。

 

ところでこの無理は、まさに自分が生きるという決意をしたという前提に基づいて行われている。その前提は絶対のものではないということは当然分かっている。生きるということは必然ではないし、そのため生きるために無理をして現実を見る必然もなければ、悲観の暴走を食いとどめる必然もない。これらの選択を為すがままに放任した結果生まれた多様な状況というものも、自分はいくつか知っている。だが彼らに対してそれは間違っている、こうするべきだという考えを押し付ける気にはなれない。なぜなら自分もまたそうなり得る瀬戸際にあり、そうなるであろう未来が予見できているからである。

誰もが自分の逆境に対して立ち上がれるわけでもなく、自分もまた、悲観の内に埋没するであろう弱い人間である。しかしそれでも自分は生きることをまだ諦めきれない人間であるということが、毎日自分を振り返ることで分かってきた。少なくとも自分は、正気を保っていられるうちは絶望と不安の流れに抗う生き方をする。