人生

やっていきましょう

516日目

知人にはまっすぐな人間が大勢いる。どういう人間かというと自分が楽しもうとすることに全力で楽しめるような人間だ。彼らを見ていると自分がいかに歪んだ存在であるかを思い知らされる。そうした人間に関われば関わるほどに、自分が彼らのような人間ではないということが鮮明に分かってくる。ふとそんなことを思ったので記録に書いてみる。

自分は小さい頃から身内から「天邪鬼」と呼ばれていた。今でいうところの「逆張り野郎」という意味だ。中学の頃、いじめについて考えるとき「いじめられる方にも原因がある」という論陣を擁護した。高校のディベートでは体罰の可否について賛成論者の視点に立とうとした。もちろんどれも本気ではなかった。中学で野球部の次に厳しい部活を選んだかと思えば、高校では数あるうちで最も緩い部活に入った。理数が苦手なのに科学系の部活に入った。あいつは勉強ができないやつだという評価が感じられると勉強をした。浪人したら本命ではない別の大学の対策をした。受かったらバカになろうとした。大学では敢えて運動系サークルに入った。講義は敢えて学部と関係ないものを選んだ(そういう横断的なシステムがあった)。本を読むことに最も価値を置く学部にいながら、ほとんど本を読まなかった。絵を描きたいと思っていながら、敢えて描かなかった。就職活動では自分に適した職種を見定めるのではなく、未知の領域に踏み込み過ぎて失敗した。最終的には様々なストレスが重なって壊れたが、その時もやはり敢えて生きる選択をした。

どうしてこういう生き方をしたのか分からないが、気が付いたらこのような人生を送っていた。まっすぐに自分の願望や関心に従うことをせず、自分の意の外にあるものに必死に近づこうとした。そうして何かが得られたわけでもなく、どうしようもない逆張り仕草が染みついただけだった。

自分が逆張り野郎であることは心底分かっているので、周りの人間が自分と同じように逆張りを始めると気分が悪くなる。他人の逆張りを見ていると自分の人生を直視してこなかったというこれまでの経緯が思い起こされてぞっとするからだ。だから逆張りで良いことなんてひとつも無いと老婆心ながら助言したくなるが、そう言われるともっと自分を悪い方向に加速させたがるのが逆張り連中というものだ。

ところでそういう人間はネットには多いようだ。世の中を逆立ちして見たようなひねくれ者を、ここでは外の世界以上に多く見かける。事実を言えばそういう人間が少なからずいるネットには居心地の良さを感じていた。ただ最近はそれも限られた話だということに気づき始めた。ネットの参入者が爆発的に増え始めてから、外の世界だけに居たような、逆張りなんかとは無縁な、自分にまっすぐな人間が多くなってきたと感じる。

逆張り人間、つまり皮肉屋にとって皮肉が通用しない相手ほど苦手なものはない。元はと言えば逆張り野郎は自分の本心や願いが叶わないから、現実の方ではなく自分を歪ませて合理化を図って自分を納得させているのであって、おそらく本心では逆張りなど無いに越したことはないと思っている。少なくとも自分の場合はそうだ。

だがまっすぐな人間はそうした気配を感じさせない。そもそも自分の生き方が概ね正しく、自分の価値観に従うということが自明であるかような感覚を抱かせる。そのような人間がごく稀ではなく、多くの場合においてそうであるために、なぜ彼らがそこまで逆張りをせずに済んでいるのかが不思議でならなかった。

実際はどうだか分からない。彼らはそこまで自信に満ち溢れているというわけではない。その人自身の葛藤や苦悩は、程度の差こそあれおそらく確実にあるだろう。だがその時の彼らは、冷笑に走るという選択をせず、落ち込んでも素直に頑張っていこうと思える人間、あるいは自分の夢を固く信じて疑わない人間、あるいは葛藤に耐えかね自分の怒りを爆発させる人間、あるいは自らの悲劇性に心の髄まで酔える人間、あるいは自分自身を笑って心から誤魔化すことができる人間なのである。

ようするに自らの価値観の没入に対して強い疑いを持っていないのだ。より辛辣な言い方をすれば、自分の物語に心底没入していると言える。そういう人間たちを自分は恐ろしいと感じる。だがそれがかえって強いということも分かる。自分の価値観を強く信じれば信じるほどに自分の判断が左右されなくなる。逆張り野郎はそうした信念を敢えて投げ捨てた人間で、だから意志薄弱で優柔不断なのだとも言える。

今のネットはそういった強い信仰をもった人間で溢れている。政治的な活動家が多いという意味ではなく、自分の好ましい物語を生きている人間が多いという意味だ。なにも悪いことは言っていないのでそれはそれでいいとは思うが、自分はどこか取り残されたような感じを覚える。常に虚無感が付きまとい、どうすることもできない苦悩というものが、彼らを見ているとまるで無かったことにされてしまうようで、ただ苦しい思いがある。