人生

やっていきましょう

519日目

ドストエフスキーの『地下室の手記』を読んでいるが、自分の記録を読んでいる気分になる。とにかく自分は、自分は、と自意識の虜になりあれこれ考えてはいるが、結局それが何にもならないというオチまで自分とよく一致している。

この主人公に共感できるのは、意識しすぎることが病気だと考えている点だ。とにかくこの男は自意識過剰であり、それゆえ自分ほど嫌な奴はいないと考えている。それで「俺以外の人間は、自分が嫌な奴だと他人に思われているとどうして感じないんだろう」と考える始末で、そのことで鈍感な他人に嫌気がさし、だがそれ以上に鈍感であることを強く羨望している。

自分もTwitterのタイムラインを眺めては似たような感想を持つことがある。どうして彼らはそこまで無益で意味のない情報を延々と垂れ流していられるのかと思うときがあるが、そうした羞恥に対して鈍感であるということこそ、まさに彼らの強みなのだ。

これは侮蔑ではなく、嫉妬に近い感情だ。彼らは誰かの視点が存在するという世界を生きているのではなく、自分の人生という体験の内に生きているのだ。だからこそ、他人にどうこう言われたところで「だから何だ」と素で思うことができる。自意識過剰な人間ならそうはいかないだろう。

次の一節などは面白いと思った。

今となれば、すこぶる明白にわかるのだが、俺は、自分の際限のない見栄ゆえに、つまりは自分自身に対する止め処ない要求の高さゆえに、しばしばひどい嫌悪感と言えるほどの猛烈な不満を抱いて、自身を見ていたので、心の中で自分の厳しい眼差しを、他のすべての人間にも当てはめていたのだ。(pp.86-87)

この男の視点が自分には分かる。自分は自分に対する要求があまりに高すぎるために、他人にも同じふるまいを望んでいるのだった。あまりに見栄が強く、それゆえ自分を卑下しすぎるあまり、多くの人間がそこまで高い要求を自身に突き付けているわけでも、自分を殊更卑下しているわけでもないということ、そしてそれはただ起こりやすいために起こっているのだという事実が見えていなかった。

だが自分はそのことを自覚している分、連中よりもマシな方だと安易に決めつけるわけにはいかない。鈍感であればこそ、安易にそう思うことができるというものだ。自意識過剰というのは、まさに安易な冷笑では誤魔化し切れないほどに自分の醜さ、弱さ、脆さに「気づいてしまう」ということであり、そういった苦悩がこの主人公には強く顕れていると思う。

こうした気づきに対して自責的になり続けた結果、主人公はそれが紛れもない快楽であると悟ってしまう。自分が自意識過剰であるということは変えられず、もはやどうしようもなくなると、劣等感や羞恥のそのものが自身に固有の慰めとなるというわけだ。自分はまだそこまで行っていないと思うが、どうだろうか。記録に不都合な事実を書き連ねているとき、自分ははたしてその不幸に酔ってはいないだろうか。

ドストエフスキーといえば、今までよく分からないロシアの文豪というイメージがあったが、こうした話を描く作家なら、案外自分に近い人間なのかもしれないと思った。まだ最初の方しか読んでいないが、これなら全部読んでも面白そうだと思った。