人生

やっていきましょう

520日目

自分の知らない分野について言葉でまとめようとすると、自分の言葉ではほとんど何も書けていないということに愕然とさせられる。その状況では参考にしている情報をただ鵜呑みにすることしか出来ないし、書かれている情報を理解が伴っていないまま、ただ切り貼りすることしかできていないからだ。

今日は自分の運動について調べていた。長距離走を長時間自分に課し続けるやり方が、体力を酷使する割に効果が薄いと感じていたからだ。当然書物は手元に無いのでネットの情報を漁ることになるが、どの情報がどれほど信頼に足るものかが、またその情報がどうして信頼に足るのかが自分の頭では判断できなかった。

こうした情報を前にして何も考えられなくなるというのは、自分の認識力と理解力が相当に低いことを浮き彫りにしている。そのことに自分はひどく失望したが、むしろこうした気づきは隙あらば自生してくるつまらないプライドを適度に折ってくれるので良いことだと思う。自分の理解力は皆無だと割り切って情報と向き合っていきたい。

未知の情報を摂取していくためには、まず大前提として、たった一度の試みで完璧な答えを求めすぎないことが重要だ。そこでは多くの誤解、多くの無理解があると思うが、そうであることに劣等感や不安を覚えて泥沼に嵌っていくよりは、不完全な認識のままでも適度な実践を挟んで試行錯誤を行っていく方が良い。

つぎに情報を比較することが重要だ。情報が正確に分からないものであっても、いくつかの情報を比べることで何となく共有されている問題が見えてくることがある。例えば長距離走を長時間行うと身体に悪影響があるという主張はいくつかの異なる記事で似たような視点で共有されていた。このように情報を比較していくことで信頼できる情報を集めていけると考えている。

こうした書き方をすると、例えば集団ストーカーや電磁波攻撃について様々なサイトで言及されているから、それは真実なのだと考えるようなものだという懸念がある。別に運動のやり方についてトンデモ情報を信じ込まされたとしても害は無いかもしれないが、情報が共有された上で何が妥当で何が妥当ではないか、ということはやはり見極められるようになりたい。

そういう時、何でも無差別的に目に入る情報を摂取していくのではなく、「比較的」信頼できる情報源を見定めることが重要であるように思う。例えば根拠となる資料や論文を提示しない個人のブログ、著者自身の情報を開示しない記事、論理の破綻、煽動的な物言いなどは少し疑ってかかるべきだろう。しかしある程度疑ったら今度は信じていく必要がある。自分は盲信と信頼の区別がうまくついていないようだが、ある程度は信じてみるということを学んだ方がいい。何事も疑っていると何も進まないからだ。

こうした考えに立って、自分の長時間に渡る長距離走の問題について後日改めて考えていきたい。