人生

やっていきましょう

524日目

「絶望に慣れることを恐れる」という言葉をカミュサルトルか何かで読んだ気がするが、そういった自省が必要な時期に差し迫っていると感じる。自分は明らかに絶望に慣れ切ってしまっているし、そのことに焦燥感も苦しみも抱きにくくなっている。

自明という問題について2年前に考え始めた。自分が抱いていた自明、あるいは自分が生きていて良いと思える漠然とした自尊の心が完全に崩れ去ってしまったからだ。それ以来自分は絶望の底で自明性の喪失という冒険と格闘しなければならなくなり、そのことによって自分は生きているという実感を得ようとしてきた。

だが今はその感覚があまりない。自分が今置かれている現状は全くの異常事態ではなく、平坦な日常となった。絶望は自明のことであり、そうでなかった過去も、そうであるはずのない未来も、まったく信じられていない。絶望という、なんとも味気ない事実だけがただ延長されている。こうした世界観が自分の中に当たり前のものとして受け入れられている。

もはや「希望や幸福など虚構にすぎない」などという言葉が何の慰めにもならないほどに、絶望に浸りきっている。絶望が不動の前提として君臨し、それゆえ絶望を意識することがほとんどなくなっている。これはある意味、理想的な状態と言えるのかもしれないが、絶望という前提が強固なものになったことで、いかなる解釈も虚無の色眼鏡で眺めてしまうことになっている。

そうあることを自分が望んでいたのではなかったのか。間違っても希望や幸福といった聞こえの良い言葉、救いのある虚構にいまさら没入しなおすことはできないだろう。ある逆張りの意図から、自分は本当は虚構の内に没入したかったのだと嘆くことを認めているが、そうあることを何より恐れていたというのも事実だった。結局自分はどちらにも振り切れない中途半端な人間なのだ。

この絶望に慣れ切った状態では、自殺という考えもまったく色あせてしまう。自分が自分であるためには自殺しなければならないという観念は、自分の中である一定の支持を得ていた考えだったが、それすら何の意味がないということにますます確信をもって答えられるようになった。自殺によって救われる価値のある自己など、自分に対する過大評価以外の何ものでもないという身もふたもない事実が、自分の生を延長させるにつれてひとつの真実として重くのしかかってくる。

万人がこうした絶望に従って社会生活を営み、生命維持を行っているかというとそうではない。社会では物語への没入が奨励され、現にそれが横行しており、したがって夢があり、動機があり、幸福があり、希望がある。そういう有機的な集団を傍観者として眺める自分を惨めに思わない日はない。自分の価値観を守るために強くたくましく生きている人間というのは、まったく賞賛に値する。これは皮肉もあるが、多少は本心も混じっている。本来自分もそうあるべきだった。ではなぜ自分がそうではなく、そうであることを望んでいながら拒んでいるという倒錯した状態にあるのか?

思うに自分は自分について向き合い過ぎたのだ。あまりに自分のことを鳥瞰しすぎたために、自分は自分の傍観者であるという視点と、自分が自分の行動者であるという視点を持ってしまった。それゆえその二つをうまく自分の中に統合する必要性が生まれ、しかしその統合がうまくいかなかったために、あるいはその格闘の末に傍観者である自分が行動の主体である自分に勝ってしまったために、自分は自分を傍観する人生を送ることしかできていないのだ。

こうしたメタ的な視点を持たない人間が、人生に没入することができるのだということがようやくわかった。つまり彼らは、一時的にせよ長期的にせよ、自分の人生の主体的な行動者であるということに疑念を持っていないのだった。なぜなら彼らは自分の判断や選択が間違っているという仮定を提言する鳥瞰的な自己に支配されず、それ以上に自らの感情や意志、願望といった主体的な自己による没入体験の中で生きているからだ。

思えば自分は、自分という認識を鳥瞰的に眺めていることが常だった。そしてこのように傍観している自己が、まさしく自分なのだと思っていた。だがある時期から意志や感情、を持った行動者として没入すべき自己が存在していないことに焦りを覚えはじめた。それからというもの自分を取り戻そうとして精一杯戦った。しかし自分はその戦いに破れた。結局自分は何かの主体にはなれず、自分の傍観者にしかなれなかった。

絶望に慣れるというのは、自分の場合、行動者としての主体を捨て、傍観者として眺める自分に観念するということである。お前は元々、主体的な価値づけを為し得る自己を持たず、鳥瞰的に自己を眺め自虐と冷笑に走ることしかできない人間なのだから、大人しくその地位に甘んじているがいい、ということである。そのことに対して自分は激しい苛立ちを覚え、かつては自分は眺めるだけの人間ではないということを躍起に証明しようとしていた(そのようにして気が触れたように走り出し、創作をし、記録を書いていた)。だが今は、自分が価値や物語の世界に関わることのできない傍観者であるという事実が、言い逃れができないほど自明のものとなってしまい、ある意味でそれが無謬の信仰のような状態になっている。

(ところでこのような寓意を鮮明に描き出しているゲームがある。Stanley parableというゲームだ。このゲームではナレーターというゲームの進行係の指示に従うことも、抗うこともでき、それぞれの度合いに応じたエンディングが用意されている。そのエンディングのうち、すべての指示(物語)に反した場合のエンディングが用意されており、最終的にはプレイヤーはプレイヤーの主観(FPS)ではなく、プレイヤー自身を鳥瞰する第三者の視点(TPS)のみになってしまうというものがある。天井裏の鳥瞰の視点だけが動かせ、キャラクターを動かすことができないまま、ただエンドロールが流れているというのは、何とも今の現状をよく表しているようだ。このエンディングは「現実の人間エンド」と呼ばれている)

だが自分はそうした絶望にあって、なぜ死にきれず、なぜ生きようとしたのだろうか。これは正直に言うと自分の人生において主体になることができなかったことに未練があったからという他にない。あらゆる価値づけに虚無の烙印を押し続ける一方で、それでも人生に価値づけを行おうと未練がましく生きているのは、傍観者でない人生をまだ味わいたいとどこかで思っているからだ。

そういう起点を意識すれば、今置かれている「絶望に慣れきってしまう」ことは本来の意図するところではないということがわかるはずだ。自分は没入できるなにかを求めており、それによって自分が主体的な人間であるということを確かめたいのである。

だが簡単にはいかない。自分は自分に対して誠実であり続けた。すなわちあらゆるものは虚無であるという事実から目を背けてこなかった。そのために自分は主体的没入の中にある人間にとって自明であるような一切の物事が、虚構であるという前提と戦わなければならない。

自分は戦うべきだ。傍観によって絶望に慣れ切ってしまうのではなく、主体によって絶望に抗うべきだ。そういう意志を自分は生きることに見出した。絶望は強固であり、虚構はハリボテには相違ない。しかしそれでも自分は少しでも自分の没入、自分の主体を取り戻す必要がある。