人生

やっていきましょう

531日目

体系化されていない思考は偶然に翻弄されやすいということを何度か考えたことがある。自分はそうした思考の持ち主であることの自覚がある。自分は体系的な背景を抱えて思考する知力がない。あるいはそうすることを拒んでいる。

体系とはどういったものを指すか、ということの理解に自信がない。おそらくそれは身近な例から辿ることができる。自分は体系についてあまり詳しくないので、イメージしやすい例を考える。

自分にとって意識しやすい体系のひとつは学校の期末テストだ。ある限られた範囲の中で、いくつか決まった答えが用意されている。その答えは無作為に集められたものではなく、ある関係の中に位置付けられている。その関係が固有のものであると示すために名前が与えられる。期末テストで言えば科目に当たる。

あまり自覚的になれないが、期末テストの勉強は自らの思考の中に体系を植え付ける作業であると言える。例えば英語を学習するとき、英単語や熟語、文法、構文といった情報を参考書から吸収することで、少なくとも自分はその知識が保証する思考の方向性やプロセス、または具体的な方法などを扱うことができる。

自分が小さい頃に勉強が苦手だった(今もそうだが)のは、それらの情報が体系化の一部ではなく単なる情報の断片であるとしか思えなかったからだ。いくら英語を勉強してもなぜそうなるのが分からなかったことを覚えている。後になってそれらが体系の一部であると知ったとき、自分の頭の霧が晴れたことを覚えている。

これらの情報がもし体系化されていなければどうなるか。知識は断片して、相互作用のない独立なものとなる。英語のAppleはその単語帳のそのページにのみ林檎であることの意味が保証されるだけになり、林檎を示す英語は流動的になる。ある世代における林檎の呼び方が、別の世代では通用しなくなる。そもそも、言葉の文法も成立しなくなり、コミュニケーションを交わすことが不可能になる。

自分が偶然に影響されると言ったのはこのようなことだ。国の治安を維持すべき厳密な法解釈は、その日の気分で変化するようになる。人の命を救う医者が、患者の腹を切ったら面白そうだと思って新しい箇所にメスを入れ、そのまま出血多量で殺すことになる。政治家は自分の意見をコロコロ変えるようになる。今日言ったことと1ヵ月前の発言が矛盾するようになる。1+1=2でも3でも5でも良い、その答えは発言者の気分に委ねられるとなったら数学は意味をなさなくなる。コンビニのATMの暗証番号が口座を開いた者でなく銀行員の気まぐれで変化したら困ったことになる。

このように、まるで古代の神官が占いで政策を決めていたように、偶然と気まぐれによって判断と方法が定められると惨事になることがいくつかある。ここまで極端でなくとも、体系的に考えなければ大なり小なりこのような結果を招くことになる。

断片的な情報と体系化された情報のどちらが信頼におけるかというのは言うまでもない。体系化された情報の方が妥当である場合が多い。というのは、体系化された情報というのは偶然と気まぐれの影響をあまり受けず、変化しにくいという強みを持つからだ。

医者が医者であると呼べるのは、法律家がその正しさを主張できるのは、それらが厳密な体系によって吟味されており、またその本人が体系による束縛を受けているからである。変化しないということ、不動であるということが、体系を我が身に宿した者の強さである。プロフェッショナルと呼ばれる者たちはこうした強さを持っている。

体系化された情報の弱点として挙げられるのは、以前も言ったがそれが必要とされる状況が消えてなくなる、あるいはその状況に適応出来なくなった場合に使い物にならなくなるということである。現在では実用性という点でハンコ文化に対するバッシングが強まっているが、時代の流れによってハンコが必要とされなくなると、もはやハンコの製造過程や技巧は不要のものとなる(当然文化的価値としては残るだろうが)。同じように英語の教師が、その上位互換である言語学的な文法理解の方法を体得していなければ、世界中で英語が扱われなくなった時にその知識は何の役にも立たなくなる。

こうした体系に対する問題は確かに存在するが、自分に限ってはそんなものを気にして体系的な情報を吸収しないよりも、進んで取り組んだ方がいいと断言する。偶然に生きるということは自分が無いということでもある。環境に身を投げるまで、キズを負うか生き残れるかが分からないという生き方は、自分の精神を酷く不安定にする。それが自分の本性だと理解していても、自分は安定が欲しいと切に願っている。

また、断片的な情報を自分の根拠にすると、その情報が適切なものであるかどうかの判断がつかなくなる。先日自分は思いつきでローマ帝国においてキリスト教を国教化したのはコンスタンティヌス1世だと訳知り顔で知人に垂れていたが、実際にはテオドシウス帝であることが暴かれ恥ずかしい思いをした(実際コンスタンティヌス1世キリスト教を「公認」しただけだ)。恐ろしいことに、自分はそれまでコンスタンティヌス1世が国教化したものとばかり思い込んでいた。だが体系化された知識にアクセスできる検索エンジンのおかげで、自分の誤りは修正された。

それ以来、ことあるごとに自分の中にある断片的で不明瞭な情報はネットで調べるようになった。情報源は1つに限らず、できれば2つ以上が望ましい。この習慣によって、自分は体系的な情報に対するありがたみを何度も感じている。

しかし、それでも自分は体系的な情報を吸収するということに向いていないのだと感じる。どうしても断片化された自分の視点というものにこだわってしまう。これはおそらく、自分という人間存在があまりに偶然と気まぐれに左右されすぎており、それゆえ自分という存在があまりに希薄なので、自分自身が思いついたことは何でも、それが自分らしさであると必死に言い聞かせなければならないと思っているからだろう。

こうしたアイデンティティの拡散に対する不安と恐怖によって、つまらない断片を絶対視することは本当に危険だ。こうした断片を恥ずかしげもなく自らのオリジナリティであると豪語し始めた日には救いようがなくなる。自分は精神が偶然に左右されるような不安定な人間ではあるが、しかし偶然を逆張り的に価値づけし続け自分の精神を更に不安定に陥れようとするよりは、これまで目を背けてきた体系的な情報を参考にするという態度を学んだ方が良い。どのみち自分は体系に不向きなのだから、いくら求めても求めすぎるということにはならない。