人生

やっていきましょう

548日目

『伝道の書』という古い読み物があった。キリストが生まれるずっと前に書かれた旧約聖書の話のひとつだ。先日ネットでたまたま言及している人がいたので読んでみたところ、自分にとって結構身近なテーマが書かれていることを知り、少し興味が湧いた。

 この文書は人生が虚しいという話をただ繰り返している。いわゆる「ヴァニタス(vanitas)」を題材としており、一切のものは風のように流れていくという日本の『方丈記』や『平家物語』の冒頭を思わせる作りになっている。無常観というのは古くから共有されていた見方であることがわかる。

初めてこれを読んだとき、どこか見慣れた感じがした。宗教本でありながら宗教色があまりなかったからだ。日本の死生観に近いからかもしれない。自分は聖書を部分的にしか読んだことがなかったからそのイメージで語っているが、宗教といえば現実を無視してただ神に対する帰依のみを説くものとばかり思っていたので、こうした虚しさを直視しようとするというのは意外だった。

見慣れた、というのは既に多くの書物で題材にされているということである。それだけ浸透した、ありきたりのテーマになっているため、あまり新しい発見はなかったが、しかしおそらくこの本はその起源ともいうべきものであり、多くの人間がこの書から影響を受けたということがわかる。そのためこのテーマの持つ普遍性を感じることができた。

この書が語るところの「空」という考え方は、自分に覚えがある。この世のありとあらゆる欲と、その欲を満たすために労苦を背負うということはしばしば虚しいものだ。これはそういう気分だというよりは、本当に自分に何も残らず、何も関連づけられず、まったくの空虚だという意味で述べている。にもかかわらず、世の中は依然として欲を持つ人間がおり、欲を喚起させる物語があり、欲を提供するサービスで溢れている。自分はそこに孤独を感じる。

自分はおそらくその欲に没入することができる。しかしそれ以上に虚しさが勝る。自分の抱える心の重苦や痛み、不安から目を背けることができないからだ。没入は一時であり、気が付けば自分の手からは抜け落ちている。それを再び掴み、離れるということを繰り返すことに、自分は意味を見出せなくなった。それにくらべて虚しさの何と盤石で長続きすることか。

自分は世間の人間がいうように無欲であるわけでも悟っているわけでもない。自分はむしろ欲を持つということが自分には必要だと思っているくらいである。欲は人間が生きようとする意志を強くする力であり、自分が生きるという決断をしたからには、無欲なままではあまりに弱いからだ。

しかし心は虚しさで溢れ、自分はただ苦痛を味わうだけである。意欲を持つということは、自分にとってはとても難しいことである。

自分はつくづく死んだ人間であるということを実感する。というのも、自分は生きようとしていながら、実際は生きることを望んでいないからである。自分は死ぬことの恐れから反射的に生きることを決断したということを誤魔化していない。何かが欲しい、こうなりたいという思いから、生きることを肯定したわけではないので、結局は自分の人生を歩んでいるという実感がない。

自分が生きようとすればするほど、自分が自分でなくなるような気がしてならない。自分がかつて知人に勧められて無理に創作をしていた頃と同じような感覚に襲われる。自分はどうにか生きるということに価値を見出そうと、あらゆる誤魔化しを自分に投げかける。だがそれは自分のためというよりは、「あなたに死なれたら困る」という他人の身勝手な都合のためなのだろう。

 自分は望みがあるということを偽って生きている。そうすることもおそらくまた虚しいのだろう。事実を言えば、生きる望みなど自分にはどこにもないのである。自分はただそれを誤魔化すだけである。これもまた虚しいことだ。

『伝道の書』には、だからこそ神を畏れよということが書かれている。また空であるからこそ、幸福を求めよということについても書かれていた。自分はそこに多くの宗教の根底に流れるものを感じ取る。つまり一切は虚しいという前提が人を覆っており、だからこそ自分の幸福に没入できるようなものを「想定」する必要があった。なぜなら神を想定することを否定し、地に溢れる物質のみを見たとして、それは神を見るのと同様に空だからだ。

自分は信仰家ではないが、その意義となるものは認めている。この世が無意味なら意味を与え、その価値を保証するなにかを見出していたほうがいい。その方が虚しさを紛らわせるからだ。だが自分はそうなることができない。自分は傷を負い、人生に意味を見出せなくなったからだ。

自分はやはり広い意味での神を求めていたということだろうか。つまり自分の人生に意味と方向性を与え、それが是であると確信をもって言えるなにかが。実際、生きるとなれば神を想定せずとも生きることはできる。初めから人生に意味や方向性など存在しないという事実を受け入れ、淡々と生きていくということだ。

だが自分はどうやらそうではなかった。自分は挫折を通じて、そこにあるはずの人生の方向性や意味が存在していないことに嘆いていた。つまりそういうものが元から存在していると思い込み、没入していたのだ。そうした世界観が破壊され、その喪失をどうにか埋め合わせようとして失敗しているのが今の自分だ。価値の欠落があり、再びそれが、どういうわけか埋め合わされなければならないとどこかで思っている、そういう人生を歩んでいる。

この考え方は虚しいものだ。おそらく失われたものは埋め合わされることはないだろう。埋め合わされるにしても、以前の想定とはまったく異なるものになるだろう。『伝道の書』が言う通り、一切は空だからだ。だからむしろ、移ろいやすさを恐れるべきではないのかもしれない。以前の自分に戻ろうとはせず、どんどん変わっていけばいい。

自分は、価値の欠落をどうにか埋め合わせるために生きるのではなく、価値が欠落した自分が、まさに今の自分であるということを認め、そこから人生を始めるべきである。なぜなら欠落した価値は既に過去のものであり、移ろってしまったものだからだ。

このことをどうしても忘れがちになる。どのみちすべてが無意味であり、自分の生きる理由にならないのであれば、どうして自分はかつて失った価値を嘆き、その喪失に絶望する必要があるのか。自分は今ここから新たな無意味な人生を延長させればいいのであり、そのために自分は生きるということに同意したはずだった。この意味というのも怪しいもので、もしかしたら「かつての自分にとっての意味」であるかもしれない。そこには今の自分という視点がないということに自分は気付いているだろうか。

文章について書こうとしていたが、結局自分のことについて書いてしまった。まとまりのある文章も書けなかった。今度はそういうことがないようにしたい。